ある禅師が短い言葉を書いて弟子達に考えさせた。その内容は以下の通りである。
「長々と降り続く雨の中を二人が歩いている。ところが一人だけ雨に濡れなかった、どうしてか?」
この話を見て弟子たちは激しい議論を始めた。
ある弟子はこういった、「雨の中を二人が歩いているが、一人は雨に濡れていない。それはきっと彼がレインコートを着ているからだろう。」
またある弟子は、「それは時雨だからだろう。時雨には馬の体も一面が雨に濡れているが、向こう側は乾いていることがある。二人は雨の中を歩いているが、一人が濡れておらず、乾いている。それは別に驚くべきことはない。」と。
またもう一人の弟子は得意げに言った、「あなた達は全部間違っているよ。『長々と続く雨』と師匠は言っただろう、なんで時雨と言えるの。それはきっとふたりの中の一人が軒の下を歩いているに違いない。」と。
このように、互いに議論を戦わせていたが、それぞれ言った内容は全て理に適うようで、また理に敵わないようでいた。なかなかきりがなかった。
最後になって、禅師はもう十分だと思って、謎を出した、「君たちはただその『一人も降られない』にばかり執着し、しかも執着しすぎた。だから議論も盛んになった。しかしその議論のせいで、君たちは真理からますます遠くなってしまった。実はね、いわゆる『一人も降られない』は、つまり二人とも濡れたということだよ。」。
禅の立場で考えると、聞かれた内容から答えるべきではなく、聞かれなかった方を先に考えるべきである。禅宗の語録は何千巻もある。ざっと読むと、ほとんど問答式のものであるが、実は、聞かれたことは必ずしも答えなければならないものではなく、答えたものは必ずしも聞かれたものではない。問答には論争があり、自ら悟ることには論争がない。問答はクイズではなく、答えること以外にまたこれというものがあるだろうか。
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