文道は行脚僧で、慧薫禅師の修行に憧れていた。ある時、遠くからはるばるやって来て、慧薫禅師の住む洞窟の前でこう言った。
「文道は慧薫禅師の立派な修行を聞いて、はるばるここまで来て、禅師に近く仕えたいと思っております。どうかご慈悲をもってご開示願います。」
すると慧薫禅師は、「日が暮れたから、今日はとりあえずここで一泊しなさい。」と言った。
翌日、文道が目覚めた時、慧薫禅師はもう既に起きていて、朝食の粥も用意されていた。さて食事をしようとした時、洞窟の中には文道が使う余分な碗がなかったので、慧薫禅師は外から一つのスカルヘッドを取ってきて、粥を盛って文道に渡した。文道がそれを受けとろうかどうか迷っている時、慧薫禅師はこう言った、「あなたには本当の道心はない。真心を込めて仏法を求めるために来たのではない。あなたはただ清さと穢れ、また自分の好き嫌いだけによって人に接し、また物事に処する。だからあなたが道心を培うことは到底無理だ。」
善悪、是非、損得、清さと穢れ、これらのことはいずれも分別の心によって知られる世界である。本当の道心は、悪、善、清さと穢れなどのことは区別しない。文道の持っている好き嫌いの考え方、そしてお粥を受けることを躊躇したその心理は、「道心無し」と判断されたのも当然だといえる。
世の人は欲に執着すれば、永遠に真の安逸を手に入れることは難しい。目は必ず美しいものだけが見たい、耳は必ず美しい音だけが聴きたい、口は必ず美味しいものだけが食べたい…そうすると、必ず様々な区別が出てくる。美しいものでないと見ない、美しい音でないと聴かない、美味しいものでないと食べない等々である。欲望が満されないと、すぐ色々の悩みが生じるので、いつも楽しくないような気がするわけである。慧薫禅師にとって大事なのはその碗をもって食材を盛るかどうかという心の動きで、その碗の属性ではない。その碗を作った素材が金銀であれ、セラミックスであれ、またたとえ一つのスカルヘッドだったとしても、禅師から見ればそれは所詮ただの食器に過ぎない。我々にとって食事をすることはこの体に栄養をとるためである。そうするだけでも私たちは修行をすることができる。美味しいかどうかは気にすべきことではない。我々には衣服が必要である。というのは、それをもって防寒できるからである。その衣服の如何にこだわる必要はない…もし生活の中でその不要な分別を捨てることができたら、その代わりとして、悩みもずいぶん少なくなり、楽しいことが多くなるに違いない。
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