日本の親鸞聖人は9歳の時、すでに出家しようと決心をした。そして、延暦寺の青蓮院慈円(慈鎮和尚)に得度式を行なってもらおうとした。「まだこんなに小さいのに、なぜ出家したいのか?」と慈円は聞いた。
「僕はわずか9歳ですが、両親とも亡くなってしまいました。なぜ人間は最後に死ななければならないのか。なぜ自分は両親と離れなければならなかったのか自分にはどうしても理解できません。ですから、これらの疑問を解くために、僕はどうしても出家したいのです。」と親鸞は答えた。
話を聞いて、慈円は感心して、「よし、わかった。おまえをわしの弟子にしよう。しかし今日はもうこんな時間だから、明日の朝、剃髪してあげよう」と言った。
慈円の話を聞いて、親鸞はよく了承できずに、「師匠、師匠は明日の朝、剃髪するとおっしゃいましたが、僕は所詮幼くて無知ですから、自分の出家する決意を明日の朝まで維持できるかどうか、自分でも自信がありません。また、師匠は今はもうこんな高齢ですから、明日の朝と言っても、明日の朝まで生きていられるかどうかも保証できません」と言った。
この話を聞いて、慈円は感心し拍手までして、「確かに。おまえの言うとおりだ。今すぐ剃髪してやろう!」と慈円は喜んで親鸞の願いに応じた。
古人は言っている、「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」と。小さな親鸞の仏門、真理に対する探求心は、一刻を争い、一晩も待てないほどであった。
このことは世の中の人にとって一顧に値することではないであろうか。しかしながら、この世の中には、「朝に金を貰わば夕べに死すとも可なり」という考え方を持つ人が大変多い。一枚の注文書を得る為、一食の美食を味わう為、一つの気に入った服を買う為に徹夜し、力を尽くし、一刻を争っている人が多すぎる。30代ですでに立派な仕事、車、家を持ち、妻も善良で子も孝行でありながら、過労で重い病気にかかって死んでしまう人も多い。それは実に残念なことである。しかしその一方、人生の真の意義を知らずにいるのも、また非常に残念なことではないであろうか。
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