南宋の道悦禅師(どうえつぜんじ<金山江天寺の住職を務めたことがある>)は宋朝の名将、岳飛(がくひ)にもっとも尊敬された高僧です。
岳飛は秦檜(しんかい<南宋の政治家、宰相として金との和解を主張した>)に金牌(きんぱい<金字で書かれた命令書>)で朱仙镇(しゅせんちん)から呼び戻されたとき、金山江天寺を通過しました。そのとき、道悦禅師は岳飛にこう言いました、「京に戻らないで、出家したほうがいいですよ。」それでも、岳飛は、自分に不利なのを知りながら、その忠心から、どうしても京へ行くことにしました。
岳飛は道悦禅師に忠告の理由をお示しくださるようお願いしました。道悦禅師は「歳底不足、謹防天泣、奉下両点、将人毒害」と返事しました。
岳飛はその時、禅師の言葉がよく分かりませんでした。その後、無実の罪で投獄され、ついには毒殺される時、はじめてこの言葉の意味を悟りました。この年の十二月は農暦の「小月」で、二十九日しかありませんでした。またその夜には雨も降り始めて、岳飛が外の雨の音を聞いた時、なにか大きな危険が迫っていることを感じました。それはちょうど道悦禅師の言った「歳底不足,謹防天泣(年末の前に、天が涙を流すのを用心しなさい)」のとおりでした。「奉下両点」は奉の字の下に二点を加えると、秦の字になるという意味で、奸臣(かんしん<悪がしこい臣下>)と言われている秦檜を指したのです。「将人毒害」は「大きな害を受ける」と言う意味でした。この言葉のとおり、やはりこの日、風波亭(ふうはてい)で岳飛は秦檜に殺害されることになりました。
秦檜(しんかい)は岳飛を殺害したあと、死刑執行人に岳飛の遺言について聞きました。するとその男は「やはり、道悦禅師の話に従うべきだった」というのが岳飛の遺言だったと秦檜に伝えました。
秦檜はそれを知って、今度は道悦禅師を逮捕しようとし、部下の何立(かりつ)に兵隊を率いて金山に行かせました。しかし、ちょうど何立が江天地に到着する前の日、道悦禅師が人々の前で仏法を説いた最後の話の中で、四つの言葉を言いました。
「何立は南から来る、私は西へ行く。仏法の力で、私は彼には捕まらない。」と。
話し終わって亡くなったとき、皆はさっきの言葉のわけがわからなくて、禅師の死に対して悲しく、同時に禅師の言葉は神秘的だと感じました。翌日、何立が兵隊を率いてきた時、人々は道悦禅師が言ったその話をさっと悟りました。
道悦禅師は岳飛の運命を予知できましたが、もちろん自分の運命も予知できたのです。しかし、なぜ道悦禅師が命を惜しまなかったか。なぜ生死(しょうじ)という運命を避けなかったか。それは、岳飛が運命から逃れようとしなかったからでした。同様に、道悦禅師もそういう宿業を避けられませんでした。禅師も宿報から免れませんでしたが、生死を超越し、生も死も美しいものだと悟っていたのです。
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