唐の粛宗の時、印度から大耳三蔵が中国にやってきた。「他心通」という神通力があると自称していた。そこで、粛宗は国師(国の最高位の僧)の慧忠法師に一つそれを試してみるように命令した。
慧忠法師は三蔵に二回聞いた、「わしは今どこにいるんじゃ」と。大耳三蔵は一回目には「四川です」、さらに二回目には、「天津橋です」と答えた。さらに慧忠法師に三回目を聞かれると、大耳三蔵は答えられず黙っていた。すると、慧忠法師は怒鳴った、「この野良狐め、『他心通』とは一体どこにあるのか」と。
禅或いは正統派仏教の立場から見れば、神通力の存在事実とその役割は否定できないが、決してむやみに「神通力」をもって人の心を惑わしたり、或いは信者数や勢力を膨らすために使うべきではない。「神通力」には本物もあるし、偽物もある。しかし、本物にせよ、偽物にせよ、因果の原則に逆らうことはできない。そうでなければ、たとえ一時の利益を手に入れたとしても、後には多くのものを失うことになるのだ。
拾いものをしたとしても、それは所詮自分の物ではないのと同じように、自分が努力もせずに他人から借金をしたり、或いはお金を奪ったりすることは、まさに「神通力」を運用するのと同じことなのである。その結果として、借りたものはいずれ還さなけらばならないし、また奪い取れば将来必ず罰を受けるに違いない。たとえ発覚しなかったとしても、因果の道理において当然の果報を受けるべきものである。お金を拾った場合も、そのお金は他人が苦労して稼いだものかも知れず、ただの土くれとか石ころとは違う。それを失った人にとって、もしかすると一生の幸せを失ってしまう可能性もあるのだ。逆に拾った人にしても、それはただで手に入れたもので、因果の論からすれば、やはり深刻なことになるのだ。
仏法からみれば、神通力を通して他人のプライバシーを盗みとったり、或いは神通力で一財産を作ったり、病気を治したりする目的を達成するのは、一時的には効果を得るかもしれないが、やはり因果律から決して逃れられない。だから、慧忠国師は大耳三蔵を「野良狐め!」と怒鳴ったのである。野良狐は何か技を翻弄するものだが、しかし所詮如来の大法とは言えないのだ。
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