ある日、道吾禅師は雲巌禅師に次のようなことを聞いた、「観音菩薩には千手千眼がありますが、一体どの目が正眼なのでしょうか。」
すると、雲巌禅師は次のように答えた、「夜寝る時、もし君の枕が床に落ちたとすると、君は目を開かず、手だけで捜しまわしてその枕をすぐつかみ、またそのまま寝込んでしまうだろう。その時、君はどの目で枕をつかんだと言えるのだい。」
道吾禅師は雲巌禅師の話を聞いて、「なるほど、わかりました、先輩!」と言った。
「分かったとは、何が?」と雲巖禅師。
「遍身眼なり。」
雲巌禅師は少し微笑みながら、「君は八分しかわかっていないね!」
道吾禅師は迷いながら、「では、どう言うべきでしょうか?」と言った。
「通身眼なり!」
「遍身眼なり」というのは、眼と身を分離し、ただ日常的、表面的な認識からの結論である。一方、「通身眼なり」という言い方こそ、眼と身を一つの融合体と見なし、その本質にある心の眼を暗示しているのである。人は誰しもその「通身眼なり」の本心を持って生まれてきていながら、なぜこの「通身の眼」で天地万物を見ないだろうか。
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