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巨賛法師

 巨賛法師(きょさんほうし)<1908-1984年>は俗名を藩楚相(はんそしょう)、字(あざな)を琴檏と言いました。また、ペンネームが多くありました。江蘇の江陰(こういん)出身でした。青年時代、江陰師範学校(こういんしはんがっこう)で勉強し、後に上海大夏大学(しゃんはいだいかだいがく)に入りました。民国十八年(1929年)故郷に帰り、金童橋小学校(きんどうきょうしょうがっこう)の校長を務めながら密かに共産党の地下活動に参加し、江陰東郷の組織また宣伝の仕事を担当しました。その後、土豪に告発され、民国十九年(1930年)国民党に指名手配され、逮捕されそうになったこともありました。

 民国二十年(1930年)、杭州の霊隠寺を訪れ、出家しようとしていた巨賛は太虚大師(たいきょだいし)に会い、太虚大師の要求に従って、「荘子」の書式を用いて出家する原因や仏道に対する理想を書きました。その文書を見た太虚は非常に気に入り、すぐに巨賛を霊隠寺の方丈に引き合わせました。その後、巨賛は剃髪しないで出家しました。戒名(かいみょう)は伝戎(でんかい)、字は定慧(じょうえ)、後に巨賛(きょさん)と変わりました。同年、南京の宝華山隆昌寺(りゅうしょうじ)で具足戒を受けました。その後、巨賛は勤勉に修行し、唯識法相(ゆいしきほっそう)、教観(きょうかん)、華厳義理(けごんぎり)、三論(さんろん)、禅学(ぜんがく)などの学習に専念しました。また招きに応じて、重慶漢蔵教理院(じゅうけいかんぞうきょうりいん)で教鞭をとりました。民国二十二年(1933年)、巨賛は南京支那内学院に入学して、広く経を読み、法義を研究しました。この間に読んだお経は8千巻あまりになり、また数百万字のノートをも書きました。

 民国二十六年(1937年)、巨賛は福建アモイの南普陀(なんふだ)「闽南佛学院(びんなんぶつがくいん)」で教えました。抗日戦争発生後は、香港を経て広州に入り、そこで韶関南華寺(なんかじ)の虚雲長老(きょうんちょうろう)に身を寄せて記室(きしつ<秘書>)になり、翌年、湖南「潙山佛学院(いさんぶつがくいん)」というところで教便を取りました。その後、田漢(でんかん<中国現代の劇作家、作詞家、中国国歌の作詞者>)を通して、葉剣英(ようけんえい<中華人民共和国の軍人、政治家、 中国人民解放軍の創立者の一人>)と知り合いになリました。そして、葉剣英の支持の下、巨賛は「仏教抗戦協会(ぶっきょうこうせんきょうかい)」と「南岳仏道教救難協会(なんがくぶつどうきょうきゅうなんきょうかい)」を組織し、自ら副主任と宣伝部長になりました。民国二十九年(1940年)、巨賛は「仏教青年服務隊(ぶっきょうせいねんふくむたい)」をひきいて、長沙の前線に宣伝活動を行いに行き、現地の人々に「和尚兵(おしょうへい)」と呼ばれました。後に、この行為が周恩来に高く評価され、周恩来から、「上馬弑賊、下馬念仏(馬に乗って敵をうち、馬から下りて念仏をとなえる)」というような褒め言葉も頂きました。その後、巨賛は南岳(衡山)に戻り、しばらく桂林にいて、月牙山寺(げつがさんじ)の住持と広西仏教協会の秘書長を担当しました。民国三十年(1941年)、月刊『獅子吼」を創刊し、その主任を任じました。翌年、卓錫桂平西山寺(せいざんじ)を住職して、後に竜華寺(りゅうげじ)の住持を担いました。この間、巨賛はよく抗日集会に参加して演説をしました。民国三十三年(1944年)冬、広西北流の「無錫国学専修館」で教えました。

 民国三十五年(1946年)、巨賛は杭州に帰り、霊隠寺に仮住まいしました。その間、巨賛は前後して杭州市仏教協会及び浙江省仏教協会の秘書長となり、『霊隠小記』を書き、また「武林仏学院」の院長も担当したこともあります。「武林仏学院」が廃校になった後、台湾、香港、マカオに行脚して、『台湾行脚記(たいわんあんぎゃき)』などを書きました。その後、巨賛は再び杭州に帰り、仏教の仕事をめぐって改革計画を実行にうつしました。また、その計画を香港に持ち帰り、共産党員である潘漢年(はんかんねん)を通じて、共産党中央に渡しました。19494月、巨賛は中国人民政治協商会儀(ちゅうごくじんみんせいじきょうしょうかいぎ)と建国の盛典に出席するため、香港から北京に入りました。同年、周書迦(しゅうしょか)などとともに仏教に関する改革を計画し、中国仏教協会と中国仏学院を創立しました。文革(ぶんかく)期間中、迫害されました。

 1980年、名誉復帰したばかりの巨赞は、引き続き仏教の回復に力を入れて働きました。現代では、巨賛法師の一生は現代の愛国的僧侶、仏学家、新仏学の開拓者として、また三蔵(経<仏の説法>、律<戒律>、論<経と律の注釈や研究>の三つ)に造詣の深い学僧であり、解行(げぎょう<教法を理解し行を実践すること>)を重んじる法師でもあったと高く評じられています。

 

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