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太虚法師

太虚大師(たいきょだいし<1889-1947年>)は民国時期の四大高僧の一人であり、霊隠寺の首座(しゅざ<僧の職名、修行僧の指導にあたる僧>)に就任したことがあります。大師は俗姓は李で、名は沛林(はいりん)又は淦森(かんせん)、浙江崇徳(せっこうすうとく<今の桐郷>)出身の人で、清の光緒十五年(こうちょ<1889年>)1228日に海寧長安鎮(かいねいちょうあんちん)で生まれました。

光緒30年(1904年)、太虚大師は蘇州木渎(もくどく)小九華寺(しょうきゅうかじ)で出家し、師匠は士達法師(しだちほうし)でした。太虚大師は元は法名が唯心(ゆいしん)でしたが、その後、師僧の奘年法師(じょうねんほうし)に法名「太虚」(たいきょ)を頂きました。そして、寧波天童寺(てんどうじ)で八指頭陀(はちしずだ)の寄禅法師(きぜんほうし)によって具足戒(ぐそくかい)を授けられました。その後、太虚大師は各地を遍歴し、有名な法師を訪れては求法していました。かつて諦閑(たいかん)に従って天台教義を学び、道階(どうかい)に『相宗八要』、『教観綱宗』などの説法を請いました。太虚大師は佛教経典を学び、佛教特に禅宗史を探求しました。それに国内外の名著を広く読み、民主的革命人士と親しく交際しました。宣統元年(1909年)、太虚大師は南京へ行き、有名な佛学の大師の楊文会(ようぶんかい)によって建られた祗洹精舎(ぎおんしょうじゃ)で勉強し、その後、普陀山(ふださn)の化雨学堂へ行って教え始めました。宣統末年、広州白雲山(はくうんざん)の双渓寺(そうけいじ)の住職に推薦(すいせん)されました。太虚大師は清王朝に反抗する革命活動に参与したため、清の官吏に追われ、寧波普陀山の錫麟堂(せきりんどう)へかくれ住みました。辛亥革命後(1911年以降)、南京で「中国佛教協進会」の創立を発起し、鎮江(ちんこう)の金山寺(きんざんじ)で行われた大会に出席しました。しかし、佛教改革を主張したので保守派と対立し、近代佛教史上、有名な「金山寺の大騒ぎ」事件となりました。その後、上海で寄禅大師を追悼した時に、また「教理革命、教制革命、教産革命」といった三大スローガンを提出し、佛教にあった不正行為を非難しました。それ以来、大師は上海、杭州、寧波、紹興といった地域にたびたび説法しました。民国時期三年(1914年)に印光大師(いんこうほうし)の支持を得、普陀法雨寺(ほううじ)で修行しました。この間、『佛法導論』、『破神我論』、『震旦佛学衰落原因論』、『教育新見』、『哲学正規』など一連の佛学の著作を書き、また、訪れて来た孫中山と会見し、現実、人生とこれからの佛教改革などについて語り合いました。民国時期六年(1917年)、台湾側の招きに応じて基隆(キーロン)各地で説法し、日本も訪問しました。翌年、寧波に帰って帰元寺(きげんじ)の住職を担当し、上海では章太炎(しょうたいえん<清の歴史学者>)一同と「覚社」の創立について話し合いました。民国時期八年(1919年)、杭州ヘ来て、『覚社叢書』を『海潮音』月刊に変更して発行し、また浄梵社(弥勒寺)及び大佛寺の住職も任じました。

民国時期十年(1921年)に、太虚大師は杭州浄慈寺(じょうじじ)の住職に就任し、霊隠寺の却非法師(きゃくひほうし)と親しく交際しました。太虚大師は招きに応じ霊隠寺の座元(ざがん<首座>)になりました。民国時期十六年(1927年)8月、奉化雪窦寺(せっとうじ)で蒋介石とその母親のために『心経』の大意を解説しました。その後、杭州へ帰って霊隠寺で『真現実論』、『自由史観』などの著作に専念しました。翌年、蒋介石が南京に帰還した時に、杭州まで足を運び、特別に霊隠へ行って太虚を訪れ、太虚大師や監院却非大師と共に楽しく過ごし、写真を撮ったりしました。この話し合いは、太虚大師の「中国佛教学会」の創立を推進しただけではなく、中国佛教代表団を率いて欧米各国へ出かけ、佛学の宣伝そして世界的な佛教運動の広がりにも大いに役立ちました。抗日戦争が勝利を収めてから、中国佛教協会の会長を担当した太虚大師は、杭州で霊隠寺の住職却非、華蔵寺の住職通賢(つうけん)、居士黄元秀(こうげんしゅう)などと共に杭州佛教及び佛教協会の成立について話し合いましたが、実現しませんでした。

民国時期十一年(1922年)、大師は武昌で「佛学院」を創建し、その後、廬山(ろざん)で行われた世界的な佛教大会に参加し、日本の東京で行われた「東亜佛教大会」にも参加して、南洋各地を遍歴しました。民国時期十五年(1926年)、帰国して厦門(アモイ)で『大乗佛教真義』などの講演を行い、また南普陀寺の住職、「闽南佛学院」の院長にそれぞれ就任しました。民国時期二十年(1931年)、四川重慶(しせんじゅうけい)の缙雲山(しんうんざん)で「漢蔵教理院」を創建し、民国時期二十八年(1936年)、太虚大師は中国佛教代表団を創設し、その団長として南アジアを訪問しました。反日抗戦勝利の後、大師は中国佛教協会の会長を引き継ぎ、民国時期三十六年(1947年)317日、上海の玉佛寺(ぎょくぶつじ)で説法している時に亡くなりました。

民国時期の高僧であった太虚大師は一生をかけて佛教教育及びその改革に取り組み、佛教事業を振興し、また人間佛教思想を提唱して、民国時期の中国佛教の振興に不滅の功績を残しました。今日に至っても、中国の佛教教育、人間佛教などに関する理論は大虚大師に由るところが少なくないと評価されています。

 

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