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宝達法師

宝達法師(ほうだつほうし)は、生没年不詳ですが、推定では西暦610907年の人であるとされています。出家してから杭州の霊隠寺で修行していました。

宝達法師については、どの資料の記載にも、「出身はどこか分からない」と書いてあります。したがって、現在、ただその生没年と出家した所が分かっているだけです。『大正蔵・宋高僧伝』という書物の中の『宝達伝』のはじめにある「唐杭州霊隠寺宝達伝(唐の杭州霊隠寺、宝達伝)」という文字と、『大正蔵・新修科分六学僧伝』の『感通科・唐宝達』の「唐宝達(唐の宝達)」とにより、宝達法師は唐朝の人で、霊隠寺で修行したことがあるということが明らかになっています。

  これらの史料により、法師は杭州の武林山に隠遁生活をしていたこともわかります。「武林山」とは現在の霊隠寺と天竺あたりの山々を指すと思われますが、『霊山志』という書物の記載によると、飛来峰(ひらいほう)が霊隠と天竺の境となっています。南のほうが天竺で、北のほうが霊隠です。そして、当時は法師は主に霊隠に住み、よく天竺の山々に出入りしていたことが分かります。法師は山の中に住んでいましたが、当時の僧界で法師は名望があったので、人々は彼に対する尊敬を表すために、その住んでいた所にちなんで「刹利法師」と称していました。

『新修科分六学僧伝』の中には、法師の伝記が「感通科」に見られます。ここから分かることは、法師には神秘的で不思議なことが多く、また、仏法に関しては、内在的な高い理解をもっていたことが明らかになっています。伝記の中に、法師はよく「持密呪為恒務(効果のある独自な呪術を心得ることをつねに日頃の努力目標としている)」「素以持誦秘呪,獲効于世(日ごろ、すぐれた力をもつ呪術をとなえることによって、世の中に仏法を効果あるものとして示すようにしている)」と書いています。

当時、浙江の銭塘江(せんとうこう)の川の海水の逆流は、すでに有名でした。毎回、海水が満潮になると水がさか巻きし、大波となって狂い、土手はきれ、川辺の人々に大きな災難をもたらしていました。宝達法師はこれを知ると、秘密の呪術をとなえ、川の逆流の災害をおさえようとしました。法師がこの不思議で神秘的な呪文を唱えて間もなくのある夜、玄冠を被って、多くのおつきの人がしたがっていた人が、波の中から突然現れ歩きだし、宝達法師のほうにやってきて、こう言いました、「私は三国時代の東呉の将軍です。昔のかたきへの復しゅうのために、このようなことをしていました、法師は慈悲の心で神秘な呪文を唱え、私たちを許してくださった。このために、自分の命はこれで終わるのです」と。話が終わると、その人の姿は見えなくなりました。その後というもの、銭塘江での以前のような災難は起こらなくなりました。それだけではなく、川の西の岸に泥や砂がたまり、川辺の百姓がその上で、ものを栽培することができるようになリました。当時の人々はこのことによって、法師の不可思議な呪文に驚き心を打たれたと言われています。

宝達法師の没年に関しては、伝記の中に「时所推称翕然敷化,后罔知所终急に亡くなったと言われているが、その没年は明らかではない」と書いてあります。つまり、法師が何歳で、いつ、亡くなったかは不明のままで、はっきりしていません。

 

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