祖師大徳
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曇超法師

 曇超法師(どんちょうほうし<419493年>)は俗姓が張、清河(せいが<現在の河北・河南一帯>)出身で、東晋の恭帝の元熙一年(419年)生まれで、のち、霊隠の高僧となりました。『高僧伝』では「形長八尺、容止可観(背の高さが八尺もあり、その容姿は見るからに立派であった)」とあり、法師のすぐれた外観と容貌が描かれています。法師は最初、上都(現在地未詳、中原あたりだと思われる)の龍華寺(りゅうげじ)に住み、粗衣粗食(そいそしょく)をし、しかも一日一食だけの生活をしていました。三十四歳の時、南方を旅していましたが、その間、ほとんど林中の樹下に枕(まくら)していました。しかし、虎や狼などに襲われたことはありませんでした。劉宋の孝武帝の時(461年ごろ)、上都に戻りました。当時の法師の声望と影響力は、劉宋元年、太祖帝に遼東(りょうとう<現在の遼寧省の東部と南部>)まで禅法を伝えるように命令されたことからもうかがえます。遼東に二年間住んでから、再び上都に戻り、まもなく銭塘にある、当時、名を霊苑山といった霊隠に来たのでした。

霊隠にいる間、法師は禅に精進し、入定(にゅうじょう)するといつも数日間、入定のままでした。ある日、曇超法師が出定(しゅつじょう)すると、急に風と雷が交じり合った音が聞こえました。ちょうどその時、山神(やまがみ)が遠くからやってきました。顔かたちが端正な山神でした。この山神は法師の座席の下まで来て、地にひれ伏して三回拜んだあと、次のように言いました、「富陽県(ふくようけん)の人が昨年の冬、坂を掘って、結局山を壊してしまった。山に住んでいる龍たちは大変怒っていて、雨を降らせないことで富陽県の人を罰している。今日までにすでに百何日間も、雨が全然降らない。井戸の中にも畑の中にも一滴の水もない。県民たちの生活が大変苦しい。法師は修行を積んで神通力をもっていると聞く。お願いだから、龍たちによく話をし、雨が降るようにしてもらいたい」と。法師は、「風や雨などをおこすのは、もともと山神であるあなたの務めだろう。私にはそんな力があるわけないだろう」と答えました。しかし山神はまた、「私は風を起こすことはできるが、雨を降らすことはできないから、法師に頼みに来たのだ」と言いました。そこで、法師は山神の話を聞いて承諾し、南の方へ五日間ぐらい歩いて赤亭山(せきていざん)に着きました。法師は赤亭山の龍たちに説法しながら祈りました。夜になって龍たちは人間に化け、礼拝しに来ました。法師は再び龍たちに説法し、三宝に帰依させました(佛法僧を信じさせました)。その後、法師は龍たちに雨が降るように頼みましたが、龍たちはこれを断って離れて行ってしまいました。その夜、法師は夢で龍たちのことを見ました。龍たちは法師に、「私たちは怒ったから誓いをして雨が降らないようにした。法師は真心をもって忠告したのだから、私たちは逆らうことはできない。明日の午後、雨が降るようにする」と言いました。法師はこれを聞いて、すぐ臨泉寺(りんせんじ)に行き、人をやって当地の県知事に事情を伝えるようにしました。また、部下を舟に乗せ、江(かわ)の中で『佛説海龍王経』を回転させるように県知事に願い出ました。すると、雨が降ってきました。そして、法師は霊隠に戻りました。この年は作物が豊作でした。

曇超法師の亡くなった年は、南斉の武帝の永明十年(493年)で、享年七十四歳でした。宋の寧宗の嘉定三年(1220年)、皇帝から「霊悟大師」という号を賜りました。

また、次のような詩が詠まれ、称えられました。

身世两忘(自分のことも世の中のことをも省みず)

以道自(道に従うことを第一にする)   

       灵苑谈经(霊苑でよく経を話し合った時)

    有来听(龍が来て話を聞いて行く)

      求泉泉生(泉を求めれば泉がわき)

求雨雨(雨を求めれば雨が降りだす)  

哉(龍にどうしてかと聞くと)

是令(師はつまり命令だからと答える

是令(師はつまり命令だからと答える

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