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道標法師

道標(どうひょう)法師(740―823)は、俗姓が秦で、原籍が浙江の富陽です。七歳の時霊隠山白雲峰海公の門下で出家し、沙弥になりました。

唐の至徳二年(757年)、国家から「お経を五百丁暗唱できる者は僧になれる」という法令が頒布されました。「師は首めて中撰した」。つまり、道標は霊隠寺で試経に受かり、国家に認められた比丘となった第一人者です。そして、霊光寺の顗(ぎ)律師によって具足戒が授かりました。唐粛宗の乾元元年(758年)、霊隠寺では住持の公開選挙が行われ、七百巻の仏経に精通する者は住持になるとされます。そして、道標は当選しました。

765年から、道標は天竺寺で戒律を研修し、有名な律僧になりました。『宋高僧伝』により、道標は12年間に6回も登壇し、僧尼に具足戒を授けました。唐徳宗の貞元中年(795年前後)、道標は西嶺の麓で茅堂を構え、僧務をやめ、修身養気をし、詩文に専念しました。詩文にかけては、道標の才能は湖州の皎然、紹興の霊澈と同じように有名でした。江表あたりでは「霅之昼,能清秀。越之澈,洞氷雪。杭之標,摩雲霄(霅の昼、清秀に能く、越の澈、洞氷雪で、杭の標、雲霄を摩す)。」という諺がありました。道標は当時の相国の李吉甫、大司空の厳綬、右仆射の韋皋、礼部侍郎の呂渭、中書舎人の白居易、隋州刺史の劉長卿等の士大夫文人と密接に付き合っていました。『茶経』の作者、陸羽は「日月雲霞為天標,山青草木為地標,推能帰美为德標,居間処寂為道標。(日月雲霞は天標と為り、山青草木は地標と為り、能を推し、美に帰すのは徳標と為り、間に居し寂に処すのは道標と為る。)」と道標法師を賞賛し、尊敬しています。杭州の人々は道標を「西嶺の和尚」と尊称します。

唐の長慶三年(公元823年)、道標法師は円寂しました。享年八十四歳でした。霊隠山に葬されましたが、その塔は今になってもう考証できません。

 

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