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慧琳禅師

  慧琳法師(えりんほうし)<西暦750~833年>は新安(今の安徽省)出身で、姓を柯(か)、字(あざな)を抱玉(ほうぎょく)と言いました。これとは別に「姓は戈(か)である」という記載もあります。おそらく「」と「柯」の字音が似ていたので、間違えたのでしょう。ここでは、宋の『高僧伝・慧琳伝』及び『大正新修大藏経』の『新修科分六学僧伝・唐慧琳』と言う本の記載に従うものとします。確かな史料が不足しているので、法師の生年月日をはっきりとさせることはできません。しかし、亡くなった年から推定すると、法師は唐の玄宗三十八年(750年)に生まれたことが分かります。ただし、具体的な月日は不詳のままです。

  慧琳法師は幼い頃に、仏門に入りました。幼少の身で杭州に来て、当時の霊隠西峰の金和尚(こんおしょう)という人に佛法を学び、修業していました。大暦初年(766年)に霊山会(道場)に行って受戒しました。受戒したのち、佛法三学に対して、更なる深い体得と理解を得て、戒学、定学、及び慧学の三学に精通するようになりました。さらに、この三学は同一視されるべきだという見解を持っていました。これらは、後に仏法を総括する基礎となり、仏法を広めることに深い影響を与えました。  

その後、慧琳法師は世俗のことに興味が無くなり、樹の下や水辺で禅楽<楽師たちが禅僧の日常生活から得た人生哲学にもとづいて作った詩歌に作曲して歌った音楽>に深く考え入ることを好み、天目山(てんもくさん)に登って、そこで二十年あまり住んでいました。その間、法師の徳が高遠であったため、よく不思議なことが起こりました。天目山は辺地にあり、数日を経てやっと山頂に着くことができたくらいでした。そのため来客は非常に少なかったです。ある史料によると、山頂に蛟(みずち)<龍の一種>が多くいたとあります。その蛟は強い臭気を発して、長期間見ることができなかったとあります。また、五月になると、山の神様が蛟とあって風波を起こしたという説もあります。その蛟の居場所はちょうど法師の住むところでした。このように危険なところでも、法師の心は少しも動じなかったのです。

  西暦807年、(唐の憲宗の元和年間)になって、慧琳法師は当時の杭州刺史(こうしゅうしし)であった杜陟(とちょく)に誘われて、永福寺(えいふくじ)で壇に立って説法しました。809年の春、また、杭州の刺史兵部郎中の裴常棣(はいじょうてい)に要請され、天竺寺で人を救済していました。その後、霊隠寺の住職として二十年あまり過ごしました。この間に、道を説き、多くの弟子を教訓しました。

さて、慧琳法師は僧界だけではなく、俗世界でも非常に有名でした。なかでも、慧琳法師の説く「佛法の大意」を聞きに来る有名な当時の官僚も多かったです。例えば、郡守左司郎中の陸則(りくそく)、刑部侍郎の楊凭、給事中の盧元輔(ろげんほ)、太府卿の李幼公(りようこう)、刑部郎中の崔鄯(さいぜん)、刑部郎中の路异(ろい)などです。これによって、法師が当時の仏教界及び官界に大きな影響を与えていたということが分かります。このことから慧琳法師は人々から「毘曇孔子」(びどんこうし)及び「勝力菩薩」(しょうりきぼさつ)と尊称されていたのでした。

  慧琳法師は大和六年(唐の文宗833年)四月二十五日に亡くなりました。八十三歳でした。僧になって六十三年目のことでした。同年の五月十二日に、永安寺の西山の南にある玛瑙坂(めのうざか)というところの左側に葬られたとあります。

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