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松源崇岳

松源崇岳(しょうげんすうがく<11321202年>)は中国の南宋時代の有名な禅僧です。名は崇岳(すうがく)で、字(あざな)は松源(しょうげん)、故郷は浙江省でした。『五頭会元続略』、『五灯全書』、『続指月録』といった関連する史料によって、松源崇岳の一生は二段階に分けられます。第一、出家して修行した時期。第二、仏法を世の中に広め、各寺の住職を務めた時期。

 一、出家して修行した時期:松源崇岳禅師は故郷の処州(しょしゅう)竜泉(りゅうせん)を出て、径山(きんざん)に行って碩德(せきとく)の大慧宗杲禅師(だいえそうこうぜんじ)に従って仏法を学びはじめた。この年、禅師は二十三歳でした。後、宗杲禅師の「蒋山応庵の仏法への対し方は僧としての正しい道である」という応庵禅師(おうあんぜんじ)をほめた言葉から、松源崇岳禅師は自分から応庵禅師の門下に入りました。禅師は応庵禅師の教えによって悟りをひらき、臨安の白蓮精舍において本格的に出家しました。この年、松源崇岳禅師は三十三歳でした。その後、もう一度福建省に行って木庵禅師に従って仏法を学びました。

二、仏法を世の中に広め各寺の住職を務めていた時期:松源崇岳禅師は悟りを開いたあと、密庵とともに霊隠に住職となり、またともに法務をしていました。この間、崇岳禅師は平江府陽山澄照寺、江隠軍君山報恩光孝寺、無為軍冶父山実際寺、饒州荐福寺、明州香山智度寺、平江府虎丘山云岩寺で説法し、のちに皇帝に命ぜられ、霊隠寺の住職となりました。

霊隠寺で住職をしていた間、禅宗の看話禅及び默照禅に存在した不正行為を正すため、松源崇岳は座禅の方法を改革しました。その中で一番影響力があって後の人に高く評価されたのが「松源二転語」です。つまり、「開口不在舌頭上(口を開いて物を言うことは単に口先だけのことではない)」、「大力量人,因甚抬脚不起(力の強い人が、なぜ足を上げないでいるのか)」という二つの転語(てんご)から、看話禅と默照禅をそれぞれ見ました。一方、松源崇岳禅師は「悟り」を座禅の方法論とすることを提唱し、「悟り」に重きをおき、通常の口頭表現を普通ではなく、特別なものに表します。松源崇岳禅師の弟子たちの努力をへて、「松源系」禅法は次第に形ができあがり、後世の禅宗に深い影響をあたえました。

更に重要なのは、松源崇岳禅師の日本の禅宗に及ぼした影響です。これは蘭溪道隆(らんけい どうりゅう)、と松源崇岳の関係からも説明できます。蘭溪道隆は松源崇岳の法の上での弟子であったばかりでなく、具体的な禅の方法に関しても松源崇岳の影響を受けました。つまり、「座禅」そのものに対する重視です。日本仏教への松源系の禅の方式の影響もここに確認できます。遠く日本まで行って、松源崇岳禅師に従って仏法を学んだ学僧には:蘭溪道隆、大休正念、西澗子曇、明极楚俊、竺仙梵仙らがあり、日本から中国へ仏法を学びに来た松源系の学僧には:南浦紹明、无象静照、月林道皎、石室善玖らがあります。その影響は当時日本で新たに出版された『松源崇岳禅師語録』の「曹溪の流派、二十余派が、東の日本国に入る,その内、松源系から出た者は十以上あった」という記載からも分かります。

寧宗の嘉泰二年(かたい<1202年>)八月、松源崇岳禅師は霊隠寺でお亡くなりになりました。享年七十一歳でした。崇岳禅師の法語また著述は、弟子の善開和光睦などによって編集された『松源崇岳禅師語録』巻二に収められています。

 

 

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