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弘一法師

  1880弘一法師(こういちほうし)、姓は李、幼名は成蹊(せいけい)と言いました。また学名は分濤(ぶんとう)、字(あざな)は叔同(しゅくどう)と言い、浙江省の平湖の人でした。1880弘一法師年10月23日、天津の裕福な官僚の家庭に生まれ、1901年に「上海南洋公学」に入学し、著名な教育家の蔡元培(さいげんばい)先生の弟子になりました。1902年11月に、南洋公学でストライキを起したことが原因で、蔡元培先生は辞職し、その影響を受けて、李叔同たちも退学しました。1903年、“李広平”の筆名で、『法学門径書』、『国際私法』を翻訳し、上海開明書店によって相次いで出版しました。1904年、上海で『虫八蠟廟』、『白水灘』などの京劇を演じ、1905年には、『国学唱歌集』を出版しました。

  1905年、日本に渡り、1906年に東京美術学校に入り、フランス留学から帰国した有名な画家の黒田清輝に師事し、西洋画を学びました。また音楽学校でピアノと作曲理論を学習するとともに、演劇も上音二郎(かみねじろう)と藤沢浅二郎の指導の下で、新劇の演技を研究しました。日本に留学している間、李叔同は中国の留学生による『醒獅』という雑誌に、文章を発表し、さらに「随鴎吟社(ずいおうぎんしゃ)」に入り、本田種竹、森槐南、日下部鳴鶴などと交流しました。授業の余暇には、話劇のような芸術活動にも熱中し、東京の中国の留学生たちと組織した「春柳社」は中国では、最初の話劇団体であったと言えるでしょう。東京ではさらに、『音楽小雑誌』という音楽定期刊行物を創刊して、自分で作った歌を数曲、発表しました。1907年の春節の時、淮北(ワイガ)<淮河の北の地域>の水災にさらされた難民を救済するため、「春柳社」は救済のための演劇会を催し、初めてフランスの小デュマの名作、『椿姫』を上演し、李叔同は女のよそおいをして椿姫を演じました。これは中国人が初めて演じた話劇でした。それから、『黒奴籲天録(こくぬゆてんろく)』ではアメリカの貴婦人、愛柳美夫人を演じました。李叔同は礼教としての儒教に代表される旧道徳・旧文化の打破を敢行し、我が国の新文化運動啓蒙家の先駆(さきがけ)と称されています。

  1901年に卒業して帰国し、天津模範工業専門学堂で図画教師として勤務しました。1912年、上海の『太平洋報』の編集に従事しましたが、同時に、城東女学堂で文学と音楽の授業を担当しました。その時、同僚の柳亜子(りゅうあし)、胡朴安(こぼくあん)などと一緒に「文美会」を創立し、『文美雑誌』を創刊しました。同年の秋、『太平洋報』は廃刊され、李叔同は杭州の浙江第一師範学校で図画と音楽の教師となり、「西泠印社」に加入しました。1915年、南京高等師範学校に転勤し、図画と音楽の教師を兼任しました。

  1906年10月、李叔同は虎跑定慧寺(こほうていえじ)で17日間も断食しました。1918年8月19日に虎跑定慧寺で老和尚了悟法師(りょうごほうし)の弟子として出家し、法名は演音、号は弘一と名乗り、同年9月に霊隠寺で具足戒(ぐそくかい)を受けました。弘一法師は嘉興の精厳寺(しょうげんじ)で数か月にわたって蔵書を読んだ後、西湖の玉泉寺に安住し、修行に専念していました。1920年の夏、浙江省の新城の貝山にこもって、仏経を研究しました。1919年の正月、杭州の玉泉寺(ぎょくせんじ)に戻って、『四文律』と唐代の道宣法師(どうせんほうし)、宋代の元照法師(げんしょうほうし)の律学の著作をひもときました。1921年3月、温州の慶福寺で修行の生活に入り、『四分律比丘戒相表記』<四分律の中の男の僧の戒律についての書物>を書き始めました。1924年、普陀山(ふださん)の法雨寺(ほううじ)で印光法師に拝見した後、衢州(くしゅう)の蓮花寺で経書を書いていました。1926年、杭州に戻って、『華厳疎鈔』(けごんそしょう)を整理し、丰子恺(ほうしかい)と『護正画集』の創刊をもくろみました。1928年、厦門(アモイ)に行き、南普陀寺(みなみふだじ)、泉州の南安の小雪峰(しょうせっぽう)の開元寺などに住んでいました。「南山律学院」を創立し、南山の律学、三冊に注釈をほどこし、行くところ、いたる所で仏法を伝授しながら、修行していました。抗日戦争が勃発(ぼっぱつ)した後に、「念仏しながら救国を忘れず、救国には必ず念仏する」と書きました。厦門が陥落した後、永寧の普済寺(ふさいじ)で修行し、『在家律要』(ざいけりつりょう)を刊行しました。1942年10月13日、泉州にある文陵養老院(ぶんりょうようろういん)の晩清室で亡くなりまいした。享年63歳。遺骨は泉州の清源山弥陀岩と杭州の虎跑に葬られました。臨終の時、「悲・欣・交・集」の四文字を書いて、自分の解脱を祈る一方、衆生(しゅじょう)の悩みをも心から哀れんでいました。

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