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道済法師

道済法師(どうさいほうし)は、別名を湖隠(こいん)、圓叟(えんそう)、また済顛(せいてん)とも言います。人々は済公(さいこう)と呼んで親しんできました。俗名は李修元(りしゅうげん)と言い、南宋の時の高僧でした。浙江省の台州(今の浙江省天台県)出身の人で、南宋の高宗の紹興十八年(1148年)生まれ、宋の寧宗の嘉定二年(1209年)に亡くなりました。十八歳の時、出家して、当時の臨安(今の杭州)の霊隠寺の慧遠禅師(えおんぜんじ)の弟子となリました。最後は杭州の浄慈寺(じょうじじ)で一生を終え、遺体は荼毗(だび)にふされ、遺骨は虎跑(こほう)というところに埋めれられました。後世、人々は済公を記念するため虎跑に記念の塔を建てました。

さて、道済法師は霊隠寺に出家したのち、普通の出家した人と変わって、座禅もしなければ、お経も読まず、身なりもいつもだらしなく、お酒も飲み、肉も食べていました。いつも俗世の町をぶらつき、あるいは子供と一緒に遊んだりして、まるで頭がおかしいように見えました。僧侶も、俗人も、この常軌を逸した道済法師を不正常だと思い、霊隠寺の僧侶たちは彼を白い目で見ていました。監院(かんにん)<寺の総監にあたる人>は道済が戒律を常に破ることを慧遠禅師に報告し、寺から追い出すべきだと主張しました。しかし、慧遠禅師は規則は普通の人のために作られたもので、道済は言わば特殊な人で、この規則によって処罰すべきではない、仏教は衆生を済度(さいど)する教えであるから、道済も済度の中にいるべきであるとおっしゃいました。このことから、道済はその後ずっと霊隠寺に住み、皆に「済顛(さいてん)」「済瘋子(さいふうし)」<顛も瘋も「狂」の意味>と呼ばれました。師匠の慧遠禅師が亡くなった後は、浄慈寺で修行していました。

済公は中国人なら誰でも知っている伝奇的な僧ですが、主に民間で活動しました。同済に関する多くの逸話は民間で伝えられたものです。済公は百姓の苦しみに同情し、一生、各地を行脚しました。浙江とか、江西とか、安徽(あんき)などに行き、百姓の中に入り込み、いつも紛争を解決し、人の命を救って、危険にさらされている善良な人に、援助の手を差し伸べ、悪人を懲らしめました。また高い医術を持って、いつも老いた僧や貧民たちの難病を治し、人々の苦痛を軽減しました。それで、済公の虐げられた人たちへの徳と行為が広く百姓の中で伝えられ、彼を「活仏(かつぶつ)」、または「済公」と呼びならわして、尊敬していました。済公にはその他、多くの不思議な伝説があります。1204年に、大火事で浄慈寺が焼失した時、済公は自分で札を書いて布施を募り、大量の木材を募りました。これらの木材は寺内の香積井という井戸から吊り出したそうです。この井戸は後世の人々に「神運井(しんうんせい)」と称され、今では浄慈寺の古跡の一つになっています。

道済法師は幼い時から官僚の家で育てられたといいます。彼の師匠の姪である居簡法師(きょかんほうし)は『湖隠方圓叟舎利塔銘』(こいんほうえんそうしゃりとうめい)の中で、道済は天台臨海都尉である李遠和の遠い子孫であるといい、この家は代々官吏で、素性がはっきりしています。それに、代々善行を積み仏を信奉し、家族の中の多くの人が禅宗の有名な居士(こじ)でした。道済の父は李茂春と言い、もと官吏でしたが、後に官吏を辞めて商売をするようになりました。その人柄は素朴かつ重厚で、慈善や喜捨を喜んでする人でした。茂春は儒者の家に生まれ、幼少のころから儒教の本を読み、文学に造詣が深かったと言います。。浄慈寺の書記<文書・記録を管理する官>を担当したこともあり、寺院の内と外に対して文書を書くことをつかさどり、当時の臨安城では道済に関する資料や詩が広く転写され、現存するだけでも、『浄慈寺を再建する疏文』『入龕文』『起龕文』『掛真文』『秉火文』『起骨文』『入塔文』などがあり、素晴らしい文筆の才能を発揮しています。また『鐫峰語录』10巻を著しとされますが、今では伝わっていません。そのほかに、伝説によると、道済法師には多くの詩作があります。浄慈寺に住んでいたころ、いつも舟を西胡に浮かべ、湖を眺めていたとされます。ある詩に

「几度西湖独上船(何度も西湖に独りで船を浮かべる)、

篙师识我不论钱(船頭は知り合いで、お金はとらない)

一声啼鸟破幽寂(ふと鳥の鳴き声で、湖面の幽寂が破れ)

正是山横落照边(まさに赤い太陽が山に沈むところところである)。」

というのがあります。また、死に臨んで、

「六十年来狼藉(私は六十年余、流浪のままであった)、

  东壁打到西壁(東の壁からすぐに西の壁に移るようなものだった)、

 如今收拾归来(今ここに帰ってきて見ると)、

 依旧水连天碧(あい変わらず水が天と繋がっている)。

という詩を作りました。

道済法師は霊隠寺の慧遠禅師(えおんぜんじ)の門下として仏教を勉強し、臨済宗の仏法を受け継いだ僧でした。禅宗の第五十祖(禅宗の開祖の五十人の一人)とされ、楊岐派の第六祖(楊岐派の第六番目の開祖)に列されています。慧遠禅師の指導のもと、早く悟りを開きましたが、その人となりが一風、変わっていて、「狂」と言われるようになったとされます。しかし、慧遠禅師は弟子の道済が平凡な僧ではないことをよく知っていました。それで、皆が道済を排斥しようとした時、慧遠禅師は彼を擁護したとされます。道済の禅法に関する著作は特に残っていませんが、「伝記小説」の中に記された彼の詩を読めば、彼の思想の独自性を推し量ることができます。

今に至る道済に関する資料は少なく、全面的で、確実、その詳細なことはよく分かりませんが、多くの伝記や小説の中には彼の事跡について多く記載があります。しかしその資料は今では散在しています。その伝記としては『北澗集』『浄慈寺志』『霊隠寺志』『補続高層伝』『西湖遊覧志余』『南宋元明僧宝伝』『五灯会補遺』『天台山方外志』『天台県志』『四庫全書』『道蔵精录』『浙江通志』などがあります。「小説」については『銭塘湖隠済顛禅師語录』『酔菩提全伝』『済顛僧伝』『済公全伝』などがあります。ほかに、現代では数多くの映画やテレビの作品で済公の物語を放映し、中国人民の「済公」に対する愛惜を知ることができます。例えば、1985年に游本昌が主役を演じた『済公』などです。道済法師に関する伝記や伝聞のほかに、彼の『自述』も済公を理解するのに重要な参考資料を提供してくれています。

 

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