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貞観法師

   貞観法師(じょうがんぜんじ<西暦538-612年>)は字(あざな)が聖達(しょうだち)で、姓を範(はん)と言い、浙江省の銭塘(せんとう)の人でした。梁の武帝の大同三年生まれで、隋の仏教界の高僧の一人であり、天竺霊山(てんじくれいざん)の始祖でもあります。父親は当時の皇帝の侍従の一人でした。また母親は穏やかで善良、そしてよくお寺でお経をとなえて、子宝に恵まれるように祈っていた敬虔(けいけん)な女性でした。伝記によると、法師が生まれたばかりの時、普通の赤ちゃんより端整できれいな顔立ちをしていたので、これを見た多くの人たちはみな、この赤ちゃんの美しさに見とれていたそうです。貞観法師(じょうがんほうし)は五歳のころから素食(そしょく<肉を食べない食事>)を始め、八歳の時すでに詩書礼易(ししょらいえき)<詩経書経礼記易経>に通じ、十六歳になると儒道諸経(じゅどうしょきょう)<儒教道教諸子仏教>とその注釈をもらすところなく全部そらんじていました。それだけでなく、法師は七弦琴(しちげんきん)、囲碁(いご)、文章、詩などにも精通していました。占い師に「子供の時に出家すれば、きっと大法師になリますよ」と言われました。しばらくして、母親は夢にお目出度い兆(きざし)を見たため、この子の出家を許しました。そして、先生の僧から衣鉢(いはつ<師から教えられる仏教の基礎的知識>)を授けられました。

  法師の出家した年は、現存する法師の伝記には関連記事がありません。ただ義興陽羡(現在の江蘇省の常州に属す)の生法師(隋訳慧と言われる)によって剃髪(ていはつ<頭をそる、つまり出家すること>)され、当時有名な律師辨為高僧に従って十誦律を学んだことがわかります。その後、三論大師興皇法朗(507581年)に従って大乗仏法(だいじょうぶっぽう)を学びました。当時、「銭塘に貞観がいることは、天下の半分を得たに当たるくらい頼もしい」という言い方が流行っていました。同時代の大忍禅師(だいにんぜんじ)は「龍樹が説かれた仏法の理は、東方世界で盛んになるであろう」として貞観禅師の仏教学のレベルの高さを賛美しました。陳の宣帝の大建十年(579年)、北周への討伐が失敗した後、朝廷は僧籍(そうせき)を持たない寺の人を還俗(げんぞく<僧や尼がふつうの世俗の人にもどること>)させることについて議論していました。法師はこれを知り、大いに驚き、すぐに書簡を書き、当時の宰相(さいしょう)の徐陵(じょりょう)(507-583年)に送り、宰相から皇帝に請願するよう頼みました。皇帝はこの手紙を読んで非常に感動し、僧籍を持たない人を還俗させる考えをあきらめたのでした。また皇帝は、「貞観法師は佛教の人材だけではなく、わが王朝を補佐できる人材でもある」と法師の才能を高く評価しました。

 当時、智者大師(ちしゃだいし)が南京を去って浙江の天台山に引退したということを耳にした貞観法師は、智者大師に憧れ、陳朝永陽王の紹介を通じて天台山へ赴き、智者大師にお目にかかった。智者大師は法師と同じ歳であったため、貞観法師を「法の兄弟」と呼びました。二人は昼には天台山を遊覧して仏法を語り合い、夜には一緒に座禅しました。こうして、法師は天台教について非常に精通していきました。

 

 

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