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賛寧法師

賛寧法師(さんにょうだいし)<919~1001年>、姓は高と言いました。後梁の末帝五年に生まれ、今の浙江省徳清県の人でした。後唐の天成年間、杭州の祥符寺(しょうふじ)で出家し、清泰(せいたい)初年、天台山で具足戒(ぐそくかい)をうけ、仏道に専念しました。その後、霊隠寺の南山に律(りつ)を学びに来ました。頭が良くて、勉強好きで、儒教の教典や仏教の経典を幅広く読み、日増しに有名になりました。その優れた文学的才能も次第に広く知られるようになりました。当時の浙江の仏教界においては、文章にすぐれた者は「文タイガー」と呼ばれ、仏教教理に精通した者は「論タイガー」と呼ばれました。また、戒律学に詳しい者は「律タイガー」と呼ばれました。賛寧大師は南山律に精通していたため、三「タイガー」の一つ「律タイガー」と尊称されたのでした。これにより、大師の呼称がふさわしかったことが分かります。呉の越王、銭俶(せんしゅく)は大師を「両街僧统」<当時の官名>に封じ、また「明義宗文大師」(めいぎそうぶんだいし)という称号を与えました。その後、大師は宋の太宗の命令によって上京し、「通慧大師」(つうえだいし)という称号を得ました。

賛寧大師の現存する主な著作には、『宋僧史略』の外、『宋高僧伝』三十巻などがあります。いずれも『大正藏』に収録されています。『宋高僧伝』は梁の慧皎(えこう)の『高僧伝』及び唐の道宣(どうせん)の『続高僧伝』に次ぐ、中国仏教史上、第三部目の紀伝体<人物の歴史を中心にして歴史を書く形態>の仏学の歴史的大著です。

大師が心血を注いだ『宋高僧伝』は、五年間にわたり、弟子たちの協力のもとで、端拱元年(988年)にようやく完成された大著です。その言葉づかいが分かりやすく、資料が正確でしかも広範、信用度も高いとされています。『宋高僧伝』の編纂により、賛寧大師は名が広く知られ、文人や仏教信者たちに高く評価されました。その後も、再び詔(みことのり)を受けて上京し、依然として天寿寺に泊まっていました。大師は朝廷から特別に翰林学士(かんりんがくし)<詔勅の起草を行う役所、翰林院の官僚>を任ぜられ、史館编修を担当しました。その後、左街僧録、右街僧録、補左街講経首座、知西京教門事といった職務を前後して担当しました。

中国仏教史上では、朝廷に重用された高僧は少なくないですが、賛寧大師のように出家者でありながら翰林学士に登用され、このような重要な地位に就任し、史書の編成や訂正活動に参加したのは、確かに非常に珍しいことです。ここから大師の文学的才能が高かったことが分かります。宋の王禹偁(おううしょう)は『右街僧録通惠大師文集序』(うがいそうろくつうえだいししゅうじょ)で、「释子(しゃくし)は仏書を内典(ないてん)と言い,儒書を外学(げがく)と言い,詩を書くのが得意な者は衆(おお)く,文を得意な者は鮮(すく)なし。この四者を共に得意にする者は大師だけである。」と、大師を賛美しています。また、欧陽修の言葉に「吴僧赞宁,国初为僧录,颇读诗书,博览强记,亦自能撰透,而辞辩纵横,人莫能屈。古代の呉の地方の僧である賛寧は、宋の初めに僧伝を書いた。その上、詩書を広く読んで、記憶力もよかった。また、本の編集もよくできて、自由自在にものを議論できた。当時、他の人でこの方面で賛寧に匹敵する人はいない。)」と大師を褒めた言葉があります。

宋の真宗の咸平四年(1001年)、大師は京都の左街の天寿寺で亡くなりました。享年83歳でした。

 

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