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曼殊法師

蘇曼殊(そまんじゅ<18841918年>)は、光緒十年に日本の横浜で生まれました。俗名は戬、字は子谷、法名は元瑛(玄瑛ともいう)で、号は曼殊、筆名は印禅又は蘇湜でした。広東の香山(今の広東の中山)の人で、近代の有名な作家、画家、詩人、翻訳家です。光緒二十九年(1903年)から民国六年(1917年)までの十四年間、曼殊は五回にわたって杭州を訪れ、霊隠寺に泊まり、『梵文典』八巻の著作に専念しています。そして、章太炎(しょうたいえん)によってその序文が書かれました。この『梵文典』はわが国の仏教学史上、強い影響力を持っている重要なな文献である。

父、蘇傑生(そけっしょう)は広東の茶商人で、母は日本人でした。名は若子(わかこ)と言いました。若子は曼殊が生まれて三ヶ月後にこの子から離れ、河合仙氏に育ててもらいました。そして、五歳の時、父と共に帰国しました。幼い曼殊は家庭の暖かさを感じたことがなく、冷たい環境で大きくなりました。

十二歳の時、曼殊は重い病気にかかりましたが、家族から薪(たきぎ)の置き場に捨てられ、彼に関心を寄せてくれる人は一人もいませんでした。その後、奇跡的に生き残りました。しかし、幼い心にが大きな打撃を受け、彼はこの浮き世を見放しました。そして曼殊は広州へ行って賛初和尚に剃髪(ていはつ)してもらい、出家しました。しかし、あくまでも子供であったので、密かに鶏肉を食べていることが発覚し、寺院から離れさせられました。

十五歳の時、曼殊は従兄(いとこ)と共に日本の横浜へ留学しました。そこで日本人女性、菊子に一目ぼれしてしまいましたが、二人の恋は曼殊の家族から断固に反対されました。その後、菊子は海に身を投げ、自殺しました。絶望した曼殊は広州へ帰り、蒲澗寺(ぶけんじ)で出家しました。この時から、曼珠の不安定な人生が始まりました。

蘇曼殊の僧名はその時代に有名になりました。彼の才能、度量を超える人はほとんどいませんでしたが、一生僧衣のまま通しました。十二歳で出家した彼は、多くは無言の抵抗行動で残酷な運命と戦いました。その後、半僧半俗の身で革命党に参加し、世の中の人に「奇人」と称されました。

これと同時に、蘇曼殊は詩人でもありました。優れた詩が後世に数多く残っています。蘇曼殊は李叔同(りしゅくどう<弘一法師>)と共に近代史上で最も神秘的な色彩にあふれた大家であり、二人とも文学の領域内で非常に深い造詣を持っていました。1907年、蘇曼殊は李叔同と上海で初めて会い、共に「南社」のメンバーになりました。その後、李叔同も出家しました。このことも蘇曼殊からの影響を大きく受けた結果であることは間違いありません。

一方、蘇曼殊は画家でもありました。その作品は格調が高く、優雅でした。曼殊はこれらの絵の作品を通して、自分の思想を表しただけではなく、反清政府の運動に大きく貢献しようとしていました。1907年、章太炎一行が東京で『民報』を創刊した時、経費の問題に遭遇しました。すると、曼殊は自ら自分の作品を売って工面することを提起しました。

蘇曼殊は愛国の革命僧侶でした。かつて東京で興中会(こうちゅうかい)、光復会(こうふくかい)といった革命的な組織に参加したことがあります。1903年、蘇曼殊はロシアのわが国の東北地区への不法占拠に反対するため、日本で「抗ロ義勇隊」に参加し、孫中山と親しく付きあっていました。また孫中山に頼まれ、二十数名の中国留学生からなる義勇隊を組織しました。た。この義勇隊はその後の武装蜂起(ぶそうほうき)の中核メンバーを育てあげました。曼殊は蒋介石とも付き合いました。その弟子である陳果夫(ちんかふ)の引き合わせによるものでした。当時、上海で貧困と病苦で困っていた曼殊は、蒋介石の家に住まわせてもらい、またその夫人陳傑如(ちんけつじょ)から行き届いた看護をしてもらいました。

蘇曼殊は聡明で博学であり、詩や絵が得意なだけでなく、英、仏、中、日、梵文にも精通していました。翻訳においても、『バイロン詩選』(George Gordon Byron)、『レ・ミゼラブル』(Victor-Marie Hugo)等の翻訳があります。また、その他の著作に、『梵文典』八卷、『梵書摩多体文』、『法顕佛国記』、『漢英三昧集』、『漢英辞典』などがあります。これらは後に『曼殊全集』(全5巻)に編集されました。

詩人、画家、革命僧侶で、このような才能、度量を持っていた蘇曼殊は191852日、上海広慈病院で病気で亡くなりました。享年35歳でした。『一切有情,都无挂碍<全て多くの人の支えで、何の心配も要らなかった>』が最期の言葉でした。孫中山は多くの献金をし、曼殊を杭州西湖、孤山の北の麓(ふもと)に埋葬しました。

 

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