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契嵩禅師

契嵩(かいすう<10071072年>)は北宋の有名な高僧です。姓は李、字(あざな)は仲霊(ちゅうれい)、号(ごう)は潜子(せんし)と言いました。藤州鐔津県(とうしゅう、たんしんけん)の寧鳳卿(ねいほうきょう<今の梧州市藤県太平鎮>)の出身でした。父が敬虔(けいけん)な仏教徒だったので、息子にも将来立派な仏教徒になってほしいという願いを持っていました。そこで契嵩(けいすう)に「仲霊(ちゅうれい)」という名前をつけました。七歳のころ、父親が亡くなりました。父の最期の遺言に従うため、契嵩は母親に藤県(とうけん)の東山(とうざん)の広法寺(こうぼうじ)に送られ、仏門に入りました。その後、浄人(在家者の外形で寺院で生活する人)として毎日、決まった時間に坐禅して経文(きょうもん)を読み、水をかつぎ入れ、柴を刈ったりしました。契崇は経文を読む時以外にも、幅広く仏教以外の俗世間の書物も読んでいました。十三歳になって、正式に出家することになり、十四歳で、具足戒(げそくかい)を受けました。十九歳のころ、契崇は住んでいた寺から離れて、よそのところで学ぶことにしました。その間、契嵩は洪鼎山(こうていざん)の洪湮禅師(こういんぜんじ)を拝見し、また洞山寺(とうざんじ)の暁聡禅師(ぎょうそうぜんじ)も拝見しましたが、結局暁聡禅師の弟子となりました。

宋の仁宗の慶暦(10411048年)年間、三十五歳の契嵩禅師は杭州に来て、すぐその美しい景色に目を奪われました。そこで、霊隠寺の永安院(えいあんいん)に常住することになりました。霊隠寺に住んでいた間、まず、契嵩禅師は欧陽脩(おうようしゅう<北宋の文人、古文復興を支持した>)をはじめとする有名な文人達が力を入れて提唱した古文復興運動<技巧と修辞に傾斜した文体から、先秦・漢代の簡潔で達意の古文を模範とし、明晰な文体を確立しようとした唐・宋時代の文学運動>が盛んになるのに遭遇(そうぐう)しました。古文復興運動は儒教の正統的な地位を主張して、強烈に仏教を排斥し、仏教の地位と立場が危機にさらされました。そこで、契嵩はすぐ「原教」(げんきょう)、「孝論」(こうろん)など十数篇の文章を書きました。「原教」は主に士大夫(したいふ)が仏教に反対していることについて、仏教と儒学の根本的な目的が、共に人々に善行をするよう、さとすものであるため、仏教を排斥すべきではないと主張しました。「孝論」は出家者が孝行を尽くすべきかどうかについて述べました。その文の中で、慧能(えのう)などの高僧が親孝行した物語を例として出し、出家者が肉親の情を忘れてはいけないと説明しました。彼の説得を知った、当時の士大夫達は仏教を排斥する態度を放棄(ほうき)しました。したがって、ある意味では、契崇は儒学と仏道との融合を進めていたとも言えます。それに、契嵩は晩年に『非韓(ひかん)』(30篇)を書きました。その内容は主に韓愈(かんゆ<中唐の文人、仏教と道教をともに排斥した>)の「原道」について反駁したものです。しかしこの著書は契嵩が当時の仏教を逆に布教することに大きく貢献したのです。

このことから次第に、契嵩は当時の仏教内部の禅宗への伝承に大きな問題があることに気づきました。当時、天台宗は『付蔵伝』の記載により、インドから中国に来た師僧(しそう)を二十四祖(にじゅうしそ)として確立していました。契嵩は以前から、これが歴史とずれがあると思っていました。それで、『智度論』(ちどろん<大智度論>)などの経論(きょうろん)に基づいて、摩訶迦葉(まかかしょう)を初祖とすれば、順次に推測して達摩祖師(だるまそし)が第二十八番目の祖であるはず、そこから、「二十四祖」と言う説は間違いであると論証したのでした。契嵩は各仏祖の年代と逸話を考証して『伝法正宗記』(でんぽうしょうしゅうき)を編纂しました。続いて、論証したことの範囲を拡大するため、絹の上に各仏祖が相互に伝承することを描きました。これに「伝法正宗定祖図」という名前をつけました。契嵩はまた、各宗祖の実績を考証して、『伝法正宗論』二巻を編纂しました。このことが原因で天台宗の大きな反駁を受けました。以上は契嵩が仏教内部に存在する問題を考証し、結論づけた内容でした。当時、この証明は禅宗の布教にも大きい影響があったと思われます。

契嵩禅師は儒家の仏教を排斥する思想に反対したこと、及び禅宗の正統的な思想を確立したことで、江南の仏教に大きな影響を与えました。それで、現地の役人からも注目され、朝廷から紫方袍を賜わりました。その後、仁宗皇帝は契嵩の書を自ら読み、役人に大蔵(だいぞう)に収録することを命じ、禅師に明教大師(めいきょうだいし)という法号を賜りました。

契嵩禅師は一生で百巻あまりの著作を著しました。残念ながら、南宋に散逸(さんいつ)して今に伝わっていません。現在残っているのは『鐔津文集』と、その付録の22巻だけです。宋の神宗の熙寧(きねい)五年(1072年)、契嵩禅師は六十六歳で、霊隠寺の永安院で亡くなりました。

 

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