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皎然法師

  皎然法師(きょうねんほうし)<推定720~805年>は、唐代の有名な禅師、律師(りっし)でした。天台宗、華厳宗(けごんしゅう)などの宗派をともに修めました。また、当時、有名な詩僧(詩才のある僧)であり、また茶僧(中国の茶道を心得た僧)でもありました。霊隠で戒を授けられ、守直律師(しゅじきりっし)に師事しました。

  皎然法師は長城(今の浙江省長興)の出身で、姓を謝(しゃ)、字(あざな)を清昼(しょうちゅう)と言いました。詩人の康楽(謝霊運<しゃれいうん>)の第十代目の子孫と自称しましたが、現在の研究では、謝安(東晋の政治家)の第十二代目の子孫であるという説もあります。

  小さい頃から、才能にめぐまれていました。性格上、仏道に魅せられ、ついに   霊隠の天竺寺で出家しました。また、霊隠寺で戒も授けられました。。当時、人々から「釈門偉器(しゃくもんのいき)<仏教界の才子>」と言われていました。受戒した後、守直律師(しゅじきりっし)のところで戒律を学び、たちまち、律学に精通したことで有名になりました。しかし、皎然法師は一宗一派の学説にこだわらず、諸宗を広く学びました。後に、天台、華厳、南北宗の禅法も深く学び、修行しました。このことは宗派を重じた唐においては、稀なことでした。

  皎然法師は名門の出身で、幼い時から儒家の教育を受け、文学にすぐれていた。特に、「詩」と「詞」が得意でした。しかし、出世や名誉には興味がなかったです。出家し、修行しましたが、世間の学問を捨てることもなく、依然として自ら詩文をつくって楽しんでいました。その詩文は洗練され、俗に染まっていなかったので、顔真卿(がんしんけい)、韋応物(いおうぶつ)などの当時の有名な詩人たちが法師と交わっていました。現存する470篇の詩歌は『全唐詩』(815~821巻)の中に収録されています。詩歌だけではなく、『詩式』、『詩評』、『詩議』など、詩歌の評論に関する文学理論の著作も書いています。特に、『詩式』は詩論の中で最も優れたもので、後世の人々に高く評価されています。

  皎然法師は茶の方面でも有名です。茶が好きなだけではなく、茶道のわきまえもありました。法師が烏程県杼山<当時の県名>の妙喜寺(みょうきじ)に住んでいた時、陸羽(りくう、唐代の詩人、『茶経』の著者として名高い)とつきあっていました。この時は、陸羽もまた若くて、容貌もぱっとしなく、性格もすこし変わっていたので、皆に「今接(いませつよ、現代のせつよ)<接輿は楚の国の人、狂人の振りをして難を逃れた>」と言われていました。ちなみに陸羽は「安史の乱」(唐の時代、安禄山と史思明による反乱)で江南に避難して、達僧<達観した僧>と自称する皎然と意気投合し、生涯の友となったのでした。二人はお茶を縁として知り合い、互いに尊敬し合っていました。自尊心の高い皎然法師は「仲宣、孟陽<ともに人名>のような醜い顔あり、相如、子雲<ともに人名>のようなどもり」だった青年、陸羽と意気投合し、特別に彼を愛護しました。最初は、陸羽に食事と住むところをを提供しただけでしたが、陸羽が引っ越した後でも、よくその家をたずねていきました。身分の低い若者だった陸羽は皎然の指導、助け、激励、及び金銭的、精神的ないろいろな援助のおかげで、中国の茶業と茶学の上でも、偉大な功績といえる『茶経』を書きあげたのでした。なお、皎然も『茶決』という本を書きましたが、今ではこの本はもう残っていません。

  現代の茶文化研究者は陸羽が茶の物質的な属性を全面的にまとめ、茶の養生の作用を組織的に述べたのに対して、皎然は茶の精神的な属性を総合的に明らかにし、茶の養心作用を補完して書きあげ、完璧にしたと考えています。一人の僧侶と一人の俗人が、中国の茶文化を切り開いたという歴史的事実は非常に興味深いことです。

  皎然法師には、

    「飲茶歌崔石使君(飲茶の時に詩を読んで崔石と喜びをともにす)」

    「九日与陸処士羽飲茶(9日陸羽と茶を飲む)」

    「飲茶歌送鄭容(飲茶の時に詩歌を鄭容におくる)」

  などの詩句があり、皎然法師の中国の茶文化についての造詣(ぞうけい)の深さを充分示している。


 

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