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慧理法師

  慧理法師(えりほうし)の経歴は明らかではありません。西晋(西暦317~420)の時代の西インドの僧侶で、のちに中国に来て霊隠寺の開祖となリました。

  数少ない史料によれば、西晋の成帝の咸和元年(326年)に、慧理法師は中国の中原地区(中国古代史の背景となった地域)から杭州に移り、最初は武林山(ぶりんさん)、つまり今の霊隠寺のあたりに住んでいました。法師はそこにあった小さな山を見て、これは中インドの霊鷲山(りょうじゅせん)と瓜二つではないか、いつここに飛んてきたのだろうと驚きました。お釈迦様ご生存の頃、多くの聖霊たちが隠遁したところだ、この山もそうなのだろうかとお思いになりました。インドの霊鷲山には、かつて白と黒の二匹の猿が住んでいました。慧理法師はこの山に行って大声で叫ぶと、やはり、霊鷲山の猿のような二匹の猿がキーっという声とともに飛び出してきました。それで、法師はこの山を「飛来峰(ひらいほう)」と名付けました。しばらくして、慧理法師はここに寺を二つ建て、一つは飛来峰の下の霊鷲寺、そして、咸和三年(328年)には、北高峰の下に霊隠寺を建てました。咸和五年(330年)には、「天竺翻経院」(原名「霊山寺」)を建て、続いて、霊峰寺と霊順寺の二つの寺も建てました。この地域に寺を全部で五つ建てたことになります。しかし、千六百余年にわたって、今まで保存されてきたのは霊隠寺だけです。それは霊隠寺が昔から中国歴代の禅宗の道場として有名であったからでした。

  さて、この飛来峰の下に岩穴があり、慧理法師はよくこの岩穴で坐禅をしたので、この岩穴は「理公の岩穴」と当時、称されていました。理公の岩穴の中の「金光洞」という洞窟の中に、元代の書家、周伯琦(しゅうはくき)が書いた『理公岩記』(りこうがんき)という碑文が保存されています。全部で211字あり、慧理法師がこの岩穴で坐禅したことを記しています。碑文には、「理公岩,晋高僧慧理师尝燕寂焉(理公岩、晋の高僧、慧理法師嘗て燕寂す焉)」という言葉が書いてあります。明代の万歴18年(1547年)、再建した慧理法師の記念塔、「理公塔(りこうとう)」は今でも飛来峰の龍泓洞(りゅうこうどう)の隣にそびえ立っています。慧理法師は晩年に、西湖に隣接した西渓(せいけい)という湿地帯の石人岭の下にある夕照庵(せきしょうあん)に隠居したと言われています。 

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