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文喜禅師

無著文喜(むじゃくぶんき)禅師(820899)は唐末の有名な禅宗の僧です。仰山慧寂禅師(ぎょうざん えじゃくぜんじ)の仏法の後継者で、姓は朱、嘉禾<現在の嘉興市>語渓の人でした。

七歳の時、故郷にあった常楽寺の国清禅師(こくせいぜんじ)という僧から髪をそり、出家して、戒律やお経などを勉強しました。その後、いわゆる「会昌の廃仏」(唐朝の会昌年間の、武宗帝による仏教弾圧事件)により、僧侶や尼僧が還俗(出家した僧が再び家に戻ること)させられたので、文喜禅師も僧をやめざるをえなくなりました。そして、民衆の中にその身をかくし、修行しながら、弾圧が過ぎるのを待っていました。唐の大中初年(847)、唐の宣宗は「仏教復興」の詔(みことのり)を出しました。文喜禅師は「塩官の斉峰寺」という寺で、もう一度出家しました。朝の勤行(ごんぎょう)に五台に参拝すると、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)が現れ、文喜禅師に神聖な仏法を提示しました。禅師はその瞬間にぱっと悟りをひらきました。

文喜禅師は入滅する(にゅうめつする)前、ある日の真夜中に、大衆に向かって、「三思心尽、即是涅槃(三たび思うに心を尽くしてす、すなわちこれ涅槃なり)」と言い、足を正しくして座したまま亡くなりました。その時、白い光が部屋中を照らし、まったく竹林にいるようでした。天複二年(901)、宣城を守っていた将軍の田頽(でんたい)は杭州守護の将軍、許思(きょし)の叛乱に応じて、兵士を放任し、ほしいままに、略奪させました。兵士たちは杭州で文喜禅師の塔を掘り返してみると、禅師の遺体は腐っておらず、爪と歯は少しづつ成長していることが分かりました。武粛銭王も大変驚き、部下の邵致(しょうち)に改めて封をして保存するように命令しました。南宋の嘉定庚辰年(1208)になって、文喜禅師のお墓は浄慈山、智覚寿禅師(ちかくじゅぜんじ)の塔の左側に運ばれました。

 

 

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