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飛来峰三洞(ひらいほうさんどう)

青林洞(しょうりんどう)

 

 青林洞(しょうりんどう)と呼ばれる洞窟は、その形が虎の口によく似ているところから「虎洞窟」とも呼ばれています。青林洞の上に位置している三体の大型の石仏像は華厳三聖(けごんさんせい)です。そして、まん中は毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)で、左側は文殊菩薩(もんじゅぼさつ)で、右側は普賢菩薩(ふげんぼさつ)である。これらの石仏像は西暦1282年に彫刻され、元代の作品の中でも最も古いものの一つです。華厳三聖の隣には小さな仏像が三体あり、「西方三聖」と称されます。五代後周の黄順(こうじゅん)元年、即ち西暦951年に刻まれ、飛来峰の彫刻の作品の中では最古のものです。まん中の仏像は阿弥陀佛(あみだぶつ)で、西方極楽世界の教い主で、無量寿仏、接引仏とも言われます。その両側には左右に脇侍(わきざむらい)の大勢至菩薩(だいせいしぼさつ)と観音菩薩(かんのんぼさつ)が安置されています。既に風化してしまいましたが、その丹念に作られた作品の美しさから五代時期の芸術スタイルがはっきり窺えます。洞窟の入り口の右側の崖に安置されているのは、仏教物語「毘盧那仏会」に関する仏像です。これは飛来峰で最も繊細な作品だと言われています。石龕のまん中に座っているのが毘盧遮那仏です。宝冠(ほうかん)をかぶり、袈裟(けさ)を身にまとい、両手を上げ、熱心に説法している様子をあらわしています。左右の脇侍に、象に乗っている普賢菩薩像と、獅子に乗っている文殊菩薩像が並列しています。また、四天王像と四菩薩像、供養人の彫像など合わせて15尊も安置されています。精錬精密な彫刻技法で、豊かな装飾に溢れています。洞窟には、古代の仏像の石刻だけではなく、道済禅師(どうさいぜんじ)に関する遺跡も数多く残っています。あるベッド状の岩石は「済公ベッド」と呼ばれ、道済禅師がここで寝たことがあると言われてます。

 

竜泓洞(りゅうこうどう)

 

 竜泓洞(りゅうこうどう)の入り口の右側には、佛教の史実を題材とするレリーフが、生き生きとしかも、整然と並んでいます。長さ6.6メートル、高さ1メートルで、白馬が経書をになう物語高僧玄奘(げんじょう)が経典を求める物語朱世行が経典を求める物語などが描かれています。最初の一組は唐玄奘が経典を求めることを描いたものです。玄奘は敬虔(けいけん)に合掌(がっしょう)しながら、ゆっくりと前進しています。これは唐の貞観年間(じょうがんねんかん)に、玄奘がいくたびかの困難を乗り越え、北インドのマガダ国へ行って戒賢法師(かいけんほうし)と会見したことに関するものです。二番目の一組は曹魏(そうぎ)の僧、朱世行が経典を求めたことを描いたものです。朱世行は左手に棍棒をささげ、右手に馬を引っ張って大股でさっさと歩いています。三番目の一組は白馬が経典をにおうことを描いたものです。後漢の永平年間、蔡諳一同が漢の明帝に命じられ、西域へ法を求めて行きました。そして、月氏国でインド僧の摂摩騰(しょうまとう)、竺法蘭(じくほうらん)に出会って、彼らを唐の首都洛陽で法を伝授するようにと招請しました。これらの彫刻は全体的にきちんと整っており、中国歴史上、中国の僧侶が外国へ行き、外国の僧侶が中国に来たという珍しい宗教文化上の交流を生き生きと描いています。

 竜泓洞(りゅうこうどう)には、南宋の似道などをテーマにした彫刻も残っています。咸淳三年(1267年)に、元軍が襄陽に侵入した時、賈似道が二回も霊竺へ行って加護を祈り、また竜泓洞で題刻をしたのでした。

 

玉乳洞(ぎょくにゅうどう)

 

 玉乳洞(ぎょくにゅうどう)には非常にまれな震旦六祖及び二人の供養人の像が彫刻されています。彫像は天聖四年(1026年)の作品で比較的大型です。それぞれ祖師達磨(そしだるま)、二祖慧可(にそえか)、三祖僧璨(そうさん)、四祖道信(どうしん)、五祖弘忍(ごそぐにん/ごそこうにん)、六祖慧能(ろくそえのう)で、合わせて「震旦六祖」と称されます。これらの彫像は禅宗の仏法が宋代に非常に流行っていたことを示しています。

 

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