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済公(さいこう)と済公殿(さいこうでん)

霊隠寺は東晋の咸和元年(紀元326年)に慧理和尚(えりおしょう)という西インドの僧侶によって建立され約千七百年の歴史がある。以来、数多くの祖師大徳がこで住持を務め、或いは修行をした。その中でも、南宋の時の道済禅師が、大勢の祖師大徳の中でも非常に伝奇的な存在だと言えよう。

道済法師(どうさいほうし)はまた済公(さいこう)とも呼ばれ、俗名は李修元(りしゅうげん)、浙江省台州(今の浙江省天台県)の出身で、南宋の淳熙(じゅんき1174年-1189年)三年に霊隠寺で出家して、霊隠寺の瞎堂慧遠禅師(かつどうえおんぜんじ)の弟子となった。

ほかの禅師と違って、済公は生涯にわたって酒を嗜んで、かつて酒にまつわる一首の詩を残した:何林景胜潇湘(周りの林の光景が湘より優れる必要はない)、只愿西湖化酒(ただ、西湖の水が全部酒になって欲しい)、合身卧倒西湖(そうして、自分が湖の畔に寝転んで)、一浪来吞一口(一波、来るたびに口を大きく開いてその酒を飲み干したい)。霊隠寺の僧侶たちは彼を白い目で見ていて、道済が酒を飲んで戒律を破ることを方丈の慧遠禅師に報告した。すると慧遠禅師は「仏教は衆生を済度(さいど)する大きな教えであるから、一人の顛僧(顛は「狂」の意味)を受け入れられないわけはない」と返事した。

その後、済公はまた済顛禅師(さいてんぜんし)と呼ばれるようになった。

済公は生前、杭州各地の山水を歩き回った。彼に関する多くの逸話が民間に伝っている。彼はかつていくつかの言葉で自分の人生を纏めた:

「大きい口を持ち、嘘はつかないが、ただお酒に目がない。髪の毛が白くて、足は常に裸だ。得色であるが、無心である。得染であるが、無執着である。酔って眠ろうと思ったらどこを問わず寝そべる。衣がボロボロで、瘋癲(ふうてん)のようだ。桃の花、柳の葉に関心を持たず、微風に吹かれて、月光を浴びながら、笑ったり歌ったりする。ロバを逆さまに乗って寺院に戻り、月を釣り、雲を耕しながら、自分で自分をで鍛える。」と。

霊隠寺に済公殿があり、その中央に置かれている済公像は、霊隠寺に保存されている清の画僧竹禅(ちくぜん)の描いた済公画像を原型として作られた青銅像である。殿内は唐宋時期の禅堂の様式に基づいて飾り付けられている。

済公殿の中央に済公像が置かれている。済公殿内の壁に、十八枚の済公にちなんだ絵が掛かっていて、済公の伝説を物語っている。この壁画は中国美術学院国画学部の教授、中国美術学院書画懸賞研究中心副主任の林海鐘さんがその弟子たちとともに三年間かかって2011年11月23日に作りあげたものである。

済公殿に入ると、東西の壁にはそれぞれ四枚の壁画があり、西湖の山水と銭塘江(中国、浙江省の北部を流れる河川)の潮汐を描いている。、そして北の六は森奥の古刹である霊隠寺と飛来峰についての絵で、南の四枚は天台国清寺と石梁五百羅漢道場の絵である。

済公殿にあるこれら十八枚の絵は全部画板に描かれている。そしてこれらの画板が全部八重以上の材料で作られ。壁画はカーキ色に下塗りされ、つまり敦煌泥と同じ色である。壁画の絵は落ち着いて、うやうやしく厳かである墨絵である。黒と白を彩りにして、その中にほんの僅かな朱色を加えただけ、あっさりして上品な感じを与える。一目見ると、まるで一枚の江南山水画を目の前にしているような感じがする。壁画は鉱物質材料で造られているので、変色しない。また日本の作法もある程度利用していて、かびが生えたり、変質したりすることなどをよく防。最後に出来上がった画板の表面も、程良い濃度ののりを選ぶ。このようにして、宣紙(安徽省宣城で産する紙画仙紙である。書画用として珍重される)と同じような効果がある

これらの壁画は全部同じく幅3メートルに近く、高さ3.16メートルで、十八枚の長さで合計50メートルに達する。ちょうど済公殿の壁を一回り囲んでいる。

済公殿に入って左に曲がると、十八枚の壁画の始まりである。済公の父李茂春が布施することを描いたものから始まり、次は済公の誕生である。十八枚の壁画がお互いに繋がりあう物語で、済公の一生を描いている。

第一枚:中年の李茂春(済公の父親)は普段よく布施をしたり、庶民に粥を施したりする天台国清講寺で子供を授かるように願うと降龍尊者(十八羅漢の第十六位)の像が落ちてくる。

第二枚:羅漢の誕生。隣近所の人々がみな祝いにきた。幼少のころから済公はあまり遊ぶことを好まず、ずっと仏典を読むことに夢中になっていた。

第三枚:李修元が霊隠寺で出家して道済との法名を名乗った。

第四枚:済公は賢い方法で、自殺を図った農民を救、その娘も請け出

第五枚:霊鷲飛来。

第六枚:悪僧の広亮をからかう。

第七枚:大悲楼の焼失

第八枚:済公は自分で布施を募り、大悲楼を立て直す。

第九枚、第十枚:宋の時の霊隠寺飛来峰の全貌図。

第十一枚:秦の丞相[じょうしょう]が強引に大悲楼を取り壊し、霊隠寺の僧侶たちが災難に遭う。

第十二枚:済顛(せいてん)が丞相府で暴れる。すると霊隠寺が守られて、大悲楼が立     

て直される。

第十三枚:浄慈寺で済公が井戸から木材を吊り上げた。

第十四枚:八魔が済顛を練磨していた。

第十五枚:済公が亡くなる。

第十六枚:済公が再び六和塔(りくわとう)に現れる。

第十七枚:済公が再び国清寺(こくせいじ)に戻る。

第十八枚:降龍尊者が石梁五百羅漢道場に戻る。

済公の姿について、創作チームが様々な版の済公伝を調べ、また霊隠寺に密蔵された済公図を参考にしながら、今のような済公の絵を描いたという。

壁画の中の済公はうれしければ笑い,怒れば大きな声でののしる。とは言え、ささやかのんびり俗離れしているような感じがする。俗な感じが減って、逆に仏教の内包が高まったような感じである。それは羅漢と祖師という二つの基本的な形式から生じたものだからである

羅漢は神通力を持つ。行いは定まらず、容貌もみな尋常でなく名状しがたい。

実は、羅漢はそれぞれ違うが、共通点がある。言わば異相ということである。一般的には、羅漢の額が少々前へ突き出、またあごもぴんとはね上がっている。壁画の中の済公もそのような特徴を持っている。

全ての壁画の中で済公は楽観的な表情をしていて、目まで笑っているような感じがする。元々達観した顔であるが、ただ悪を除く時だけ、その表情が明るくなくなる。

祖師は済公像を作る時の、もう一つの参考であったと言える。「済公伝」によると、済公は幼少のころから仏典を読み、造詣が非常に深かったと言われる。博学で慈善や喜捨を喜んでする悟った名僧である。禅宗の第五十祖(禅宗の開祖の五十人の一人)とされ、楊岐派の第六祖(楊岐派の第六番目の開祖)に称される。『鐫峰語10巻を著し、その外に多くの詩作があり、全て『浄慈寺志』と『台山梵響』の中に収められている。

壁画の中の済公は一代の名僧として、多くの祖師大徳の特徴と物語を集めている。だからこそ、この済公は本来の済公のイメージに最も近いといえるかもしれない。

ただ、壁画の中の済公はその装いにおいては非常に伝統的である。普通の僧衣を付け、帽子、団扇、徳利までも全部世人のよく知っている典型的なイメージである。

済公殿のこれらの壁画は済公に関する伝説を描いただけではなく、南宋時代の杭州の山水も描いている。例えば、霊隠寺、大悲楼、六和塔、浄慈寺、雷峰塔、西湖、銭塘江等が含まれている。鑑賞者が少し注意を払えば、壁画の中のこれらのものはすでに現代のものと異なっていることが容易に分かるであろう。

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