霊隠逸話
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機知で友人の子を救った諦輝禅師

霊隠寺はまた雲林寺とも言われます。雲林という字は清の康熙皇帝(こうきこうてい)がここで遊覧した時、誤って書いた名前です。当時、霊隠寺の住職だったのが諦輝禅師(たいきぜんじ)でした。

諦輝は、明末清初の人で、出家した後、霊隠へ遊学に来ていました。直指堂(じきしどう<法堂の名>)において方丈の具德(ぐとく)と会いました。その時、「彼以直指、我以直会」(彼は直を以て指し、我は直を以って会す(先生の指導はちょくさいであり、私もちょくさいに悟る))と言いました。また、鳥の鳴き声を耳にし、さっと「大千一时俱直」(大千は一時にしてみな直なり(偉大な教えはすぐ理解でき、直截的である)」と悟り、印可(いんか<弟子の悟りを師が認めること>)を得ました。諦輝(たいき)は一生人となりが素朴で、かつ聡明であり、霊隠寺史上、彼に匹敵する人はほとんどいないと言われます。以下は諦輝が機知を以て友人の子を救った話です。

諦輝と親しい友人である反清(清國に反対する)の将軍、日初(うんじつそ)が戦争で自分の子と離れ離れになってしまいました。諦輝禅師はいろいろさがした結果、その子が清軍の杭州の都統(ととう<清代軍隊の長官>)に下男として売られたことが分かり、どうしても救い出そうとしました。

杭州には伝統的な習慣があります。つまり、陰暦二月十九日を観音菩薩の誕生日として、町中の士女(しじょ<市民>)たちが、霊隠寺、天竺寺などの寺院で線香を立てる習慣です。この日になると、都統(ととう)の妻も何人かの下人を連れ、霊隠寺へ線香を立て、また、方丈室へ諦輝禅師を見舞いに来ました。その下人たちの中の痩せ細った弱々しい子が友人の子の寿平(うんじゅへ)でした。このことを知った諦輝禅師は、その子の前に来てひざまずいて、「罪、罪過です」とぶつぶつと言いました。これを見た都統の妻はびっくりして理由を尋ねました。

諦輝禅師(たいきぜんじ)は改まった口調で次のように答えました、「この子は地蔵王菩薩(じぞうおうぼさつ)の生まれ変わりです。あなたがこの子を下男にしたこと自体、すでにまちがいですが、まして彼を虐待するとは。恐らくあなたへの罰は目の前に迫っているでしょう」。

妻はびくびくしながら諦輝禅師に再三助けを求めたが、禅師はただ首を振って黙っているだけでした。焦った妻はあわてて下人を派遣して、夫を呼んできました。二人は諦輝禅師の前にひざまずいて助けを求めました。

そうすると、諦輝禅師はゆっくりと話しました、「罪があるのはあなたたちだけでなく、私にもあるのです。地蔵王菩薩がわが寺院に来るのにちゃんと迎えることができないなんて、なんと罪深いことでしょう。いま、地蔵王菩薩に寺院を供養していただいて、あなたたちは正直に罪業(ざいごう)を悔い改めるしかありません」と。

都統とその妻はこれに同意しました。また多くの財産を布施(せふ<僧に金品を贈ること>)して、寿平を諦輝禅師に残して寺院を離れていきました。

諦輝は寿平に読書や絵を教え、その後家族と団欒させました。

「どうして寿平を帰らせたのですか?寺院に泊まらせた方がよかったのではないでしょうか」と聞かれると、諦輝はこう答えました、「石揆(せきき<前任の住職>)のような愚痴は絶対言いません。全力を尽くして沈近思(ちんこんし)を寺院に引き止めようとしたが、できなくて」。

 その後、寿平(うんじひょう)は世に有名な画家になり、当時の王時敏(おうじびん)、王鑑(おうかん)、王輝(おうき)、王原祁(おうげんき)、呉歴(ごれき)と共に「四王呉(しおうごうん)」と称されます。寿平は山河花鳥(さんがかちょう)に精通していただけでなく、詩文もよく出来ました。ある時、「寿平と沈近思(前任の方丈である石が育てた子)とでどちらが一層優秀ですか」と聞かれたら、諦輝禅師は「沈近思は儒を学んで周、程、張、朱(いづれも儒者の名)の型を脱することができていないが、惲寿平は絵を学んで文、沈、唐、仇(いづれも文人・画家の名)の型を出ることができているから、わたしが観たところ、惲寿平のほうが優れている」。そう言いながら、戒尺(かいしゃく)でみずからのう打っていました、「また石揆と勝負を争ってしまった!いけない、いけない!」。

 

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