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杜明甫、夢謝亭(むしゃてい)を建てる

  霊隠の谷あいには、夢謝亭(むしゃてい)という亭(てい<あずまや>)があります。詳しい場所はよく分かりませんが、その建造過程が記録され、今に残っています。

夢謝亭の「夢」は即ち南朝の劉宋時代の有名な山水詩人、謝霊運(しゃれいうん)のことです。謝霊運(385-433)は、河南省の人で、名将(有名な武将)、謝玄(しゃげん)の孫です。この祖父の謝玄は東晋に功績があったため、その爵位である康楽公(こうらくこう)を継ぎました。このため、後世には謝康楽(しゃこうらく)とも呼ばれます。420年、宋の高祖、劉祐が東晋に代わりました。朱少帝の時、謝霊運は永嘉(えいか<現浙江省温州市>)の太守(長官)になりましたが、間もなく辞職して、会稽(かいけい<現浙江省昭興市>)で隠居生活を送っていました。宋の文帝の時代、また臨州内史(杭州行政官)に任ぜられましたが、元嘉十年、罪を問われ、殺害されました。

謝霊運は中国文学発展史上、初めて数多くの山水詩(さんすいし)を詠んだ詩人です。その山水詩は自然の景観の美しさを描写し、清新で明るく、芸術上緻密で、その景物はまるで本物とそっくりです。この自然を清新に描く詩風は、東晋時代以来の玄言詩(げんげんし<東晋で盛行したやや暗い詩体>。)が主流を占めていた当寺の文学の局面を打開しました。

謝霊運は、貴族出身で資産、使用人ともたくさんありました。謝霊運が生まれた時、占い師がその赤ん坊の一生の運勢を占いました。そして、その赤ん坊は、幼い時、生家で養われてはいけないと警告しました。つまり、生家で養われると、夭折する(ようせつする<若死にする>)と予言したのです。そこで、両親はこの災難を避けるために、謝霊運を杭州の霊隠に住んでいる杜明甫(とめいふ)という人の家に預けて、育ててもらいました。偶然とは言え、杜明甫は前の晩、ベットに熟睡している時、朦朧(もうろう)とはしていましたが、東南方の方角から一人の賢人が訪れて来る夢を見ました。かなり真に迫った夢でした。翌日、赤ちゃんの謝霊運が杜明甫の所に送られて来ました。その十日後、謝霊運の祖父、謝玄が亡くなったそうです。

謝霊運は杜明甫に育てられ、十五歳になった時、実家に送り返されました。そのため、謝霊運には「客児」というあだながあります。この言葉は「他人の家に預けて養ってもらった子供」という意味です。のち、謝霊運が出世し、全国に有名になった後、杜明甫は霊隠の谷間に亭を建て、あの夢と現実がたまたまぴったり合った事を記念するため、夢謝亭と名づけたのです。この夢謝亭はまた客児亭とも呼ばれ、宋代まで保存されていたそうです。給事中(きゅうじちゅう<官名>)であった廬元輔(ろげんほ)は霊隠の詩に、夢謝亭のことを、「長松は晋家の樹で、頂きには客児亭がある。」と書いています。この詩から分かるように、夢謝亭は飛来峰の頂きに建てられたのです。しかも、亭の前に高くてまっすぐ伸びている大きな松の木があり、夢謝亭を覆っていました。

また、霊隠の飛来峰龍泓洞(りゅうおうどう)の入り口に、大きな岩があります。翻経台(ほんきょうだい)と呼ばれます。これも謝霊運と関係があります。謝霊運は仏経を深く研究し、仏教への造詣もあったので、大変自負していました。ある歴史書によると、会稽太守の孟覬(もうき)は仏教を深く信じ、仏学に深く精通していたので、当地ではとても有名でした。しかし、謝霊運は孟覬のことを軽視し、よく「あなた(孟覬)は私より先に昇天するが、私より後に成仏する。」と言っていました。伝えによると、謝霊運は杜明甫の所で育ててもらった時、幼い頃からすでに仏経をよく勉強し、よく翻経台で仏経を開いて(中国語では本を開くことを「翻」という)朗読していました。これによって、翻経台という名前が付けられたのです。唐代の詩人、姚鉉(ようげん)は次の詩を通して、このことを記録し、賞賛しています。

 

    康乐悟玄机 康楽(こうらく<謝霊運>)が玄機(げんき<奥深い道理>)を悟り、

    寂寥此栖息 寂寥として(じゃくりょう<心が満たされないで、むなしく、さびしく>)此(ここ)に栖息す(住んでいた)。

    经翻贝叶文 経は貝葉文(ばいようもん<経文>)を翻し(ほんし<読み>)、

    台近莲花石 台(翻経台)は蓮花石(れんがせき<仏像の台座>)に近し。

 

しかし、研究によると、これは全く仮託したものにすぎません。文献の記載から分かるように、謝霊運はかつて廬山(ろざん)で仏経を研究したことがあります。当寺、北中国で流通していた『涅槃経(ねはんきょう)』を翻訳し、南本三十二巻(436年、宋時代に翻訳された涅槃経)に整理したので、廬山には翻経台があるのです。霊隠寺の翻経台は、ただ謝霊運の声望を借りて有名になったものだけだと言われます。この説はかなり理にかなっていると思われます。謝霊運は十五歳まで杭州に居て、杭州で字を覚えて勉強したので、飛来峰に来たことがあるはずです。謝霊運が全国で有名になってから、霊隠寺は廬山翻経台の名称を借りて、霊隠の景観の一つを命名したのです。しかし、廬山翻経台の「翻」は「翻訳」の「翻」で、つまり、謝霊運が廬山で北本経を南本経に訳したことを指し、一方、霊隠翻経台の「翻」は「翻閲」<開いて閲覧する>の「翻」で、つまり、謝霊運がこの岩で仏経を開いて勉強したことを指すと主張する人もいます。この言い方もつじつまを合わせたもので、ここでは、参考として指摘しておくだけにしましょう。

歴史書によると、謝霊運は一生、山水を愛しました。「山を尋ね、嶺に登り、岩の障は千重あるので、尽くして備えないこと莫れ。登躡する時、常に木屐を著し、山を上ると(木屐の)前歯を去し、山を下りると(木屐の)後歯を去す。」多くの山や水流を自分の足で踏んだので、山水詩が見事に書けるようになったのです。謝霊運の自然風景への熱愛は、もしかして幼い頃、山水に播かれた種からでき上がったものでしょう。

 

 

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