近年来、霊隠寺の評価が高くなるにつれて、霊隠寺へ参詣や、また遊覧に来る国内外及びホンコン、マカオ、台湾地域からの来客の数が日に日に増えている。そして霊隠寺の拝観料、お賽銭、布施などからの収入は、毎年相当な額に上っている。かつて十年の内乱で、極左路線の破壊の為、今になってもなお多くの観光客と参拝者が宗教や信仰というものに対して不安を持っている。霊隠寺の収入の使い方にも疑問を持っている。特にホンコン、マカオ、台湾地域からのお客様は、常に様々な疑問を抱いて質問をする。
観光客と参拝者が最も安心できることは以下のことである。
改革開放の深化と共に、中国共産党の宗教及び民族政策も一歩進んで、霊隠寺の収益が全部、仏教の趣旨及び民主的な管理を厳格に守って使われていること。その中の殆どは向こう10年間にわたって行われる大規模な10年修築計画の実施に使われる。それをもって、高くそびえている江南名刹を改めて振興しようとする。
残りの一部分の収益は自給自足、つまり霊隠寺自身の日常支出を維持する他に、主に各種の公益事業に使われる。これによって、仏教の「荘厳国土、利楽有情」、つまりよく言われる「慈善事業や喜捨を喜び、 善を行ない徳を積む。人々を救おうとする」という趣旨を遂行しようとする。
杭州市は国務院に景勝地と定められて以来、園林の建設が速いスピードで発展し、その為に巨額の資金を調達しなければならない。しかし、国の財力には限りがある。こういう状況の中で、一部分の経費は様々な援助に頼るしかない。霊隠寺にも当然責任がある。また、宗教用不動産政策の実施もあり、霊隠寺は上述したとおり、杭州市園林管理部門に合計50万元余りの経済的な援助を提供している。杭州また西湖を美化する為に力を尽くている。
かつて霊隠寺一帯の農民が飲んだのは小川の水であった。飲み水の状況を改善し、健康を保つ為に、1984年、霊隠寺の収入はまだあまり多くなかったにもかかわらず、ためらうことなく12,500元の資金を出して、改水工事を援助した。さらに、7万元の資金を出して、道の舗装及び橋の建て直しを援助した。その中の5万元は西湖の白堤断橋を修繕する為に寄付したお金である。
その年、四川一帯で矢竹が花を咲かせ、国宝のパンダがほとんど絶滅する危険な状況になった。全国的にパンダを救う為に寄付をして、基金を設ける活動が始まった。霊隠寺は一回で5,400元を寄付した。そのうち2,400元余りは僧侶たちが寺内で寄付を募ったものである。1988年、浙江省は台風と大水害に襲われて、作物が水浸しに遭って、家屋が倒壊し、人と家畜の被害は甚大であった。霊隠寺は政府の呼びかけに応えて、一回だけで被災地に3万元余りもの寄付をした。
身体障害者の問題も霊隠寺が重視しているもう一つの問題である。1985年、霊隠寺は省、市の障害者福祉基金会に15,000元寄付した。民政部門は感謝の意を表す為に、わざわざ霊隠寺に「行善助残(善を行ない、障害者を助ける)」の額を贈った。また、1990年、霊隠寺はアジア競技大会(1990年、第11回アジア競技大会は北京で開催された)に数万元の義援金を募った。
外に、霊隠寺は学校、幼稚園、町内会、及び学術団体などに何度も援助を提供した。更に、霊隠寺は毎年その収入から一部分を調達し、仏教協会の統一した公益資金として提供している。
1985年以来、各地の宗教的施設が徐々に回復され、名所旧跡も徐々に立て直されてきた。霊隠寺に援助を求めにきた所も益々多くなってきた。この面において、霊隠寺は82万元余りの義援金を支出した。そのうちホンコンの天壇大仏像だけで約30万元を賛助した。
霊隠寺の拝観料の発売、お賽銭の回復はまだそれほど時間が経っていないが、1986年から1991年までのわずか五年間で、もう既にさまざまな社会的公益事業に巨額の資金を提供した。これは国のために困難を分担しただけでなく、仏教自身の慈善事業や喜捨を喜ぶという趣旨をもよく具現したものである。同時に霊隠寺に高い名誉をももたらした。
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