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周恩来総理が霊隠寺を護れと指示

19668月、文化大革命(ぶんかだいかくめい。略称は文革・ぶんかく)運動が全国に渡って起こった。当時、紅衛兵(こうえいへい)が反乱を起こし、あちこち「破四旧」(旧い思想文化風俗習慣の打破)を叫んで街頭へ繰り出した。杭州でもほとんどの寺院が破壊され、宗教に従事する人達も次々と弾圧を受けた。

1966826日、杭州の一部の紅衛兵がその「除四旧」の対象として、霊隠寺に狙いを定めた。彼らは寺を壊し、仏像を押し倒し、霊隠寺を徹底的に打ち壊そうと叫んだ。しかし、一部の民衆と若い学生たちは彼等の暴挙に反対し、国の名所旧迹を守り、霊隠寺の安全を確保すべきだと訴えた。両者で激しい論争が行われた。その日、霊隠寺の周りに何千人もの人が集まった。当時の政府は各方面からプレッシャーをかけられていたので、勇気を持ってこの事件を解決できる者が一人もいなかった。結局、広範な労働者、農民及び学生たちが自発的に大規模な寺を守るチームを作り、霊隠寺の周りで寺を守衛して、やっと霊隠寺を一時的に守ることができた。民衆の寺の守りが8月末まで続いたが、「破四旧」の勢いは弱まるどころか、ますます強くなってきた。当時、文革のリーダーたちは下心を持って指示を出した。「霊隠寺を守るかどうかは、全て革命民衆によって決定することだ」と。事情が益々厳しくなってきて、霊隠寺の陥落は目前に迫っていた。

この瀬戸際の時、敬愛する周恩来総理はご多忙の中、霊隠寺が破壊される恐れがあるという情報を得て、居ても立ってもいられなくなった。この大災害に向けて、周総理は当時における唯一の方法を選んだ——霊隠寺の暫定的閉鎖であった。周総理はすぐ「霊隠寺を暫く閉鎖する」との指示を出したので、霊隠寺を災難から逃れ、保護することができた。

当時、霊隠寺はおそらく杭州市にあって破壊されず残された唯一の宗教的施設であろう。今、この事件の経緯をまだ覚えている人で、周総理に対する感謝と敬愛の情を持たない人は一人もいないだろう。勿論、総理の決断力と機転に対して、敬服しない人もいないに違いない。霊隠寺が危険極まりない状態にある時、寺内の僧侶たちも霊隠寺の守りに大きな役目を果たした。当時、寺内にはまだ幾人かの僧侶が残っていたが、彼らは国務院からの指示を大衆に公布しながら、毛主席の画像を多く購入した。そしてこれらの画像を仏像の頭部から足元まで貼り付けておいた。もし誰か仏像を壊そうと思う人がいたら、必ず毛主席の画像を一緒に壊すことになる。これで、紅衛兵とは言え、勝手に壊すことはできないはずだ。また、誰かが本殿に飛び込んで仏像を破壊してしまう恐れを防ぐためにも、当時において、やむなくとった方法である。

「文革」において、霊隠寺が危険極まりない状態にあった時、周総理は決断力と機転をもって霊隠寺を守った。「四人組よにんぐみ・江青 · 張春橋 · 姚文元 · 王洪文)」が失脚した後、霊隠寺が改めて修繕され、再び開放されるようになった。中国共産党と中国政府が唱えた信教の自由(しんきょうのじゆう)を保護するという政策の正しさが、大衆及び仏教の信者たちにはつくづくとありがたく感じられた。そして私たちは霊隠寺に足を踏み入れて、その華麗で壮大である本殿、気勢があがる仏像を見る時ごとに、私たちの敬愛する周恩来総理を追慕するのである。

 

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