清(しん)の時、霊隠寺に諦暉(たいき)と石揆(せきき)という二人の僧がいました。その中の一人は戒を持し<仏の定めた戒を守って破らないこと>、もう一人は禅を参じました<禅の道に入って修行をすること>。そして、諦暉が霊隠寺の住持をしている時、寺の内は香花<仏前に供える香と花>が絶えることなく、寺はきわめて盛んでした。これを見た石揆は、これを奪ってやろうと心のなかで考えました。諦暉がたまたま天竺で雨乞いをしている時、石揆は呪いで黒い龍を呼んで、雨を降らせようとしました。人々はみな石揆のことを神様だと思っていました。諦暉はこれを聞いて、すぐ雲栖寺(うんさいじ)に行って、その静かな中に隠居することにしました。
さて、こうして石揆が霊隠に住んだ時、沈氏という人の息子が父母が早く亡くなったので、人の召使となっていました。沈氏の子は七歳の時、施主<仏事に寄進したり、僧に物を寄付したりする人>に随って霊隠寺に来ました。石揆は沈氏の子を見て、その気骨に驚きました。そこで、沈氏の子を自分の弟子にするように施主に頼みました。更に教師を雇って沈氏の子に学問を教えました。沈氏の子は非常に頭がよく、二十歳前後の時、沈近思と名づけられて、当時の杭州政府の試験を受けて第三位を取りました。しかし、石揆は沈近思が受験生になることに賛成しませんでした。寺の僧たちを集め、沈近思を佛前にひざむかせて、剃髪(ていはつ<髪の毛をそること、つまり出家すること>)して袈裟を着せ、「逃佛(じょうぶつ)」という法名<仏教の名>を与えました。このことが沈近思の友だちに知られてしまいました。彼らは杭州政府に悪徳の僧、石揆が受験生の髪を剃り、「儒家の人を仏門に入らせようとしています。はなはだ法を無視しています。」と訴えました。また、石揆が人を殴ったり、霊隠寺を焼却しようとしているとも言いふらしました。杭州の官員はもともと石揆と親しかったのですが、大衆の怒りを恐れて、沈近思にあらためて髪を伸ばして、受験生になることを許可しました。石揆は寺の僧を集め、「これは私が諦暉にそむいた報いだ」と泣きながら言って、弟子の僧に諦暉に戻って来るようお願いに行かせようとしました。その僧は、「諦暉はすでに逃がれて、音信不通になっておると聞きます。私はどこへ迎えに行けばいいのでしょうか」と尋ねました。すると、石揆はこれに答えて「今、雲栖(うんせい)の山の寺にいて、寺の外に松一本と井戸一基がある」と言うが早いか、そのまま亡くなってしまいました。沈近思はその後、進士になって、左都御使<当時の官名>という官位に就きました。
諦暉は霊隠にもどった後、親友である惲某(うんぼう)が避難する時、七歳の息子を杭州防衛の将軍家に売ったことを知って、その息子を救おうと思っていました。ちょうど二月十九日、霊隠寺は観音生誕を迎え、満族や漢族の女性たちがみな霊隠寺の方丈の大和尚を参拝に来ました。将軍の妻が下女と下男約10人を連れて参拝に来た時、諦暉は、10人の中の細くて弱そうな若者が惲某の息子であるととっさに分かりました。諦暉はただちにその息子の前にひざまずいて、「申し訳ない、申し訳ない」と言いました。将軍の妻はびっくりしてそのわけを尋ねました。諦暉は「この方は地蔵王菩薩です。人間に生まれ変わり、人間のする善悪をひそかに調べに来たのです。奥様はこの方を奴隷として隠し、しかもムチで打ったのは悪業の深いことです」と言いました。将軍はその話を聞いて、自ら寺に来てずっとひざまずいて、「私を救ってください!」と心から祈りました。諦暉は将軍に香花をささげさせ、地蔵王に寺に入ることを許しました。将軍は大変喜んで、金百万を寄付し、惲某(うんぼう)の息子を諦暉に渡しました。諦暉は惲某の息子に書道と絵画を教え、「寿平(じゅひょう)」と名づけました。その後、惲寿平(うんじゅひょう)は書画と詩の「三絶(さんぜつ<三方面にすぐれた能力>)」と言われました。しかし、諦暉は惲某の息子に剃髪して出家させることは要求しませんでした。よく「私は石揆の愚を模倣しない」と言っていました。この物語は嘗て杭州で広く伝わった話です。人々は今でも諦暉の高潔さを賞賛しています。
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