霊隠逸話
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慧理法師は白い猿を飼う

 霊隠(れんいん)は古くから杭州の有数な観光地と言われてきました。わきでる冷泉が清らかで、洞窟は精巧、石仏はとてもおごそかです。ところで霊隠がこのように有名になったのはもう一つ重要な原因があります。すなわち、ここに江南の著名な古刹(こさつ)――霊隠寺(れんいんじ)が鎮座していることです。

 霊隠寺の開山者はインド僧の慧理(えり)法師という方です。霊隠という名の由来はもともと慧理法師と関係があります。霊隠あたりは元来、武林山(ぶりんざん)と呼ばれていましたが、晋の成帝の咸和元年(西暦326年)、慧理法師が北方の中国から行脚(あんぎゃ)して訪れてきました。その時、山肌に林立している趣きのある石、高くそびえている古い樹木などを楽しみながら、山頂まで登りました。山頂に登った慧理法師は、「これはインドにある霊鷲山(りょうじゅせん)にそっくりだが、いつごろここに飛来してきたのだろう。お釈迦様がご存命であった頃は、多くの神霊たちがこの山に隠れ住んでいたものだが」と言いました。慧理法師の言った「神霊たちが隠れ住んでいた」は、武林山と仏様を結びつけただけではなく、趣きのある石と静かな洞窟という武林山の環境にも非常にふさわしかったので、後の人は、この一帯を霊隠と呼ぶようになりました。慧理法師の言い及んだ山も飛来峰(ひらいほう)と命名されました。慧理法師はここに、北高峰(きたこうほう)を背に、(ほくかん)を隣として、飛来峰に向かって霊隠寺を建立しました。

 霊隠寺に面している飛来峰は、呼猿峰(こえんほう)、また白猿峰(はくえんほう)とも呼ばれます。これも慧理法師に関係があります。言い伝えによると、慧理法師はこの山は天竺から飛んできた霊峰(りょうじゅほう)だと主張しましたが、多くの人は半信半疑でした。これに対し、法師は「インドの(霊鷲山には黒と白の2匹の猿がんでいた。もしこの山が霊鷲山なら、あの2匹の猿も一緒に来ているはずだ」と言って山ろくの洞窟に行って大きな声で猿を呼びました。すると、洞窟の中から黒と白の2匹の猿が跳び出てきました。人々はこれを見て、はじめて慧理法師の話を信じるようになったということです。また、その洞窟は「呼猿洞(こえんどう)」、その峰は「呼猿峰(こえんほう)」と呼ばれるようになりました。

 霊(りょうじゅ)が飛び来たり、黒と白の2匹の猿も一緒に飛んで来たりすることはもちろん伝説にしか過ぎませんが、慧理法師が霊隠寺を建てた後、白い猿を飼っていたことは確かなようです。

 言い伝えによると、法師の飼っていた白い猿は人と交流することができ、人なれした非常に活発な猿でした。昼には、谷川の中で飛び跳ねて遊んだりします。また、夜には松風の音が低く鳴り、名月が高くかかり、谷の泉の水が澄んだ音を立てる中で、この猿は悲しく吠えて、聞く人を悩ましくさせました。慧理法師は「引水穿廊步呼猿绕涧跳(水を廊下に引き入れて歩き、猿を呼んでは、谷水をめぐって跳る」という詩句で、白猿を飼う楽しみを詠んでいます。

ところで、南朝の劉宋(りゅうそう)の時代に、霊隠の猿が一番多かったと言われています。当時、智一(ちいつ)という僧侶が慧理大師を慕って、多くの猿を飼っていました。これにちなんで、智一自身も「猿父(えんふ)」と呼ばれました。

それ以来、猿がよく霊隠の谷間に出没しました。怪石(かいせき)が林立し、谷水が清らかで、松と水から澄んだ音が聞こえる。その中から猿のさびしい鳴き声も聞こえてきます。これらは人々に無常感を感じさせます。このため、南宋時代に臨安(杭州の旧名)の銭八景(せんとうはっけい)を決めた時、「冷泉、猿鳴(れいせん、えんめい)」もそのうちの一景とされたのです。当時、観光客は泉のそばで猿声を聞くことを好み、知識人もこれを題材として多くの詩を書いています。例えば、南宋の時、浙江省嵊県(じょうけん)の人である呉大有(ごだいゆう)は「猿を聞く」という詩を作りました。即ち、

月照前峰猿啸岭(月光が前の峰を照らしている、峰の中で猿が鳴く、<その声はいかにもさびしそうだ>)

夜寒花落草堂春(夜も寒くなり、花も我が春の家に散っている)。

同来蜀客偏肠断(同行した四川客もいかにも腸断の思いのようだ)、

曾是孤舟渡峡人(元来、小船でひとり山峡を渡った人だったのだ)。」

たぶん詩人は四川の友人と共に観光に来たと推測されます。友人は船で長江三峡下りをして杭州に着きました。三峡両岸の猿声(えんせい)はその声のさびしさで有名ですが、さらにここで猿声を聞いて、故郷への深い思いが溢れてきたのでしょう。

 宋、元の両朝以降は、霊隠の猿もだんだん少なくなり、清の時代になると、なかなか猿を見かけることがなくなってきました。しかし、記載によると、猿を発見したことがしばしばあるようです。清の順治(じゅんち)六年(西暦1619年)に、霊隠寺の僧侶が白い猿を見かけたとあります。その猿は雪のように白く輝いていたため、月光の下で一層可愛く見えたとあります。1651年に、僧侶たちが青蓮閣の下で黒い猿を見かけました。不思議なことに、この猿は頭に笠(かさ)をかぶって、あわただしく道を急いでいる様子でした。猿を見つけた僧侶たちは驚いて思わず叫び出しました。そのため、黒猿はびっくりして、するどく吠えて、谷川を跳んで去って行ってしまいました。当時の人々は白黒の猿の出現を不思議に思っていました。また、慧理法師が呼猿洞から呼び出した黒と白の2匹の猿であると主張する人もいました。しかし、慧理法師が開山し、寺院を建立した頃から清の順治まで、既に1300年余り経っていますから、もし本当にそうであったら、二匹の猿の寿命は極端に長くて不自然です。ただし、古くから霊隠山に猿がいたことは事実であり、またその猿の一番早い飼い主は慧理大師であったことは確かです。慧理大師はこの高くそびえている霊隠寺の開山者であるとともに、霊隠の谷間に「猿鳴(えんめい)」という景観をも作り上げたのでした。

                                                       

 

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