霊隠逸話
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林和靖(りんわせい)が船に乗り、霊隠を遊覧する

宋の林和靖(りんわせい)は、名が逋(ほ)、字が君復(くんぶく)で、号が和靖先生(わせいせんせい)でした。生家は杭州です。銭越王の時、祖父の克己(こくこ)が役人となり、通儒学士(つうじゅがくし<官名>)でした。君復(くんぶく)は幼い時に家が落ちぶれ、両親も亡くなったため、寄りどころがなくなりました。成人した後も、読書に専念し、経史(けいし<儒教の経典・歴史の書物>)から諸子百家(しょしひゃっか<春秋・戦国時代の多くの学者の書物>)まであらゆる分野に精通していました。

宋の真宗(しんそう)の景徳(けいとく)年間(1004-1007年)、家でのつまらない暮らしに飽きた和靖は、江淮(こうわい)地方< 長江と淮河の流域>を放浪するように遊行(ゆぎょう<僧侶が諸国を回って修行すること)していました。しかし、至る所で官僚の行政が混乱し、人々は名利(みょうり<名誉と利益>)に酔い、互いにさぐりあい、だまし合う暗黒の世界でした。また、外地の風景も、西湖ほど風光明媚なところはなかったので、彼はとうとう杭州に戻ってきました。恬淡(てんたん<心静かで無欲>)な性格であったため、和靖(わせい)は衣食の不足をも全然気にとめず、楽しく生きていました。経論(けいりん<天下を治める制度、計画>)にも精通し、才能も豊かでしたから、もし官職についたなら、きっと高い地位につき、栄華を極められるはずだとの薦め(すすめ、<すいせんすること>)も少なくありませんでした。また、結婚して子を生み育てるという普通の暮らしを送るようにとの忠告もありました。しかし、「人生には満足が一番大切です。結婚して子を育てても、その子の功名は私の求めるものではありません。私が望むのは山水の風景です。琴瑟(きんひつ<琴>)などの音も品性を磨くことができます。私は、もし腹が減ったら、山野(さんや<山や野>)の果実や花でも空腹を満たせます。夫婦が敬い合うべきだとよく言われていますが、これは私にとって本当に余計な話です。功名と富貴を合わせ持つことは確かに人にとって光栄ですが、山林の暮らしも最高だと私は思っています」と言っていました。

こういう考え方を持っていた彼は、生涯独身でした。町の繁華街に住んだら、自分のこの志(こころざし)に逆らうことが避けられないため、一層どこかで庵(いおり)を結び、最期まで住もうと決めました。杭州は風景が美しいですが、西胡の六橋あたりは狭くてうるさいし、両峰は遠く、高くて辺鄙だ、それに天竺(てんじく)、霊鷲山(りょうじゅせん)にはすでにたくさんの僧侶と道士が住んでいましたから、ここに庵を結ぼうとはしませんでした。石屋、晴嵐(二つとも粗末な僧侶の住む家)などは僧侶に合っています。湖と山の素晴らしい景色を楽しみながら、湖の一番きれいに見える所に住もうとするなら、いっそのこと湖のかたわらに住んだほうがいいと考えた末、彼は孤山(こざん)を選んだのです。孤山は青々とした樹木に覆われ、澄んだ湖水にも囲まれ、橋をわたってどこへでも行けるし、立地条件が非常に良かったのでした。したがって、和靖(わせい)は孤山に庵を結び、竹でまがきを造るなどをしました。初めの頃は、毎日庵の庭園を熱心に面倒見ていました。庭園には紫色の桃の木、黄色いスモモの木が植えられ、春には満開になる蘭、秋には美を競う菊の花が観賞でき、月桂樹と蓮(はす)の花も点在しています。しかし、和靖の一番気に入ったのは梅でした。庭園には360本ほどの梅の木が植えられています。彼の多くの詩作の内で梅を詠んだ詩が特に有名です。例えば、

 

      疏影横斜水清浅,暗香浮动月黄昏、

       「うっすらとした影がに傾いて、らかで浅い

        かすかなりがただよって、光が黄昏色に変わる。

      雪后园林才半树,水边篱落忽横枝、

        が降った後の園林に行ってみると、梅花が少し開いている、しかし水辺のまがきには花が満ち、その重みで枝が横ざまになっている。」

湖水倒窥疏影动,屋檐斜插一枝低、

 「梅花がさかさまに湖水に映っている。うっすらととした花が水波にしたがって揺らいでいる、よくみると、軒の下にも梅が一枝斜めにさしている、花道の花のように低く伸びてきたものだ。」

蕊讶粉绡裁太碎,蒂凝红蜡缀初干、 

 「梅花の花弁はまるでピンク色の絹を切ってできたように見える、しかも切り方が細かい。花の茎は深い赤い色でろうそくのようだ、花弁が落ちてのち水気を失う。」

横隔片烟争向静,半粘残雪不胜情

 「梅花はこっそり咲いた。その枝はまるで横にただよう煙のようだ、何の音もしないで静かさを増している。残雪がかろうじて花弁にかかっている。まったくたまらない清涼さだ。」

 

和靖は梅を植えただけではなく、鶴も飼っていたため、「梅妻鶴子」(梅は妻で、鶴は子である)と言われました。実は、鶴はメッセンジャーにもなっていたのです。和靖は梅が満開になる時だけ家に篭(こも)っていましたが、ほかの日は、いつも外に出て心行くまで観賞(かんしょう)し、朝早く出て夜遅く帰って、熱心に見て歩きました。従って、親友が訪問してきても、彼の行く方がわからない場合が多かったです。友人が来たらすぐ自分に連絡してもらうため、和靖は鶴を飼い始めたのです。そして、寺の子供たちにも、「もし遠くから来るお客さんが急用の場合、鶴を空に飛ばしてください。飛んだ鶴を見るとすぐに船で帰りますから。これならお客さんは文句を言わないでしょう」と言っていました。この話から、和靖は友情を重んじる人であったことがわかります。「朋遠方より来たる、また楽しからずや」と述べられるように、中国の知識人、士大夫(したいふ)は友情をとても大切にしますが、和靖も例外ではありませんでした。

和靖は人柄が上品で、風格が深くて奥ゆかしく、淡遠(たんえん<性格が淡白で識見が高い>)でした。詩は全部衷心から発したもので、絶対人のまねをしないため、人々に尊重されています。当時、薛映(せつえい)、範仲淹(はんちゅうえん)、陳堯佐(ちんぎょうさ)、梅堯臣(ばいぎょうしん)、宗元(きょうそうげん)といった多くの郡守や知識人が和靖を訪れたことがあります。宋の仁宗(にんそう)の天聖(てんせい)年間に(1023-1031年)、杭州郡守(郡の長官)である王随(おうずい)が杭州の知事を担任し,和靖のことを敬慕していたので、自ら先生に会いに来ました。その訪問から意味深い対話が伝わっています。

王随は和靖が住んでいる家屋が粗末なものであるのを目にし、ずっとこのままでしたら恥ずかしくないかと思って、「処士(しょし<未だ出仕していない知識人>)はどうして出仕しませんか?」と和靖に聞きました。「出ないというわけではありませんが、ただ出仕の才能がないのです。」と和靖が答えました。王随は「何の才能が必要ですか?」とまた聞きました、「上には君主の要望にこたえ、下は民衆の希望に答えなければなりません。田舎者である私には簡単にできないことです。」と和靖は答えました。「共に同じ管理することです。山林の統治も朝廷の統治も同じものです。」と王随が語りました。和靖は笑いながら、「ただ花木を栽培し、禽(とり)、魚を飼い、山水のような風景の詩を吟詠することに才能を持っています。私にはほかの才能はないですが、詩の推敲ができます。」と答えました。

「田舎そだちのあなたに、何の詩の才能があるんですか?」と王随はそう思いました。そこで、和靖と詩の勝負をしようとしました。和靖の話は恬淡(てんたん)であるが、詩には高潔で華美な表現が満ちています。王随は思わず「あなたのご高名は本当でした。」と感嘆し、俸禄を出して和靖のために家屋を建て直しました。巣居閣(そうこかく)、放鶴亭(ほうかくてい)と小羅浮(しょうらふ)などは、彼のために新しく建てられたものです。

和靖は隠居すればするほど、その名望が一層高くなってきました。実は、その前に彼の名はすでに都まで聞こえていました。宋の大中祥符(たいちゅうしょうふ)五年(1012年)、隠居のことを聞いた宋の真宗(しんそう)は和靖のことを尊敬して、「府県に勅命を下し、粟帛(ぞくはく<あわと絹織物>)をたまい、役人にときおり見回る」よう命じました。このことから宋の真宗は人材を大切にする皇帝であったことが分かります。和靖は皇恩(こうおん<天子の恩徳>)に恵まれましたが、自慢はしませんでした。「皇帝があなたを気に入ったのですから、どうしてあなたはこのチャンスをとらえて高い官職につかないのですか?」との忠告もありましたが、和靖は笑いながら、「栄誉(えいよ)は虚名にすぎず、高い官職に付くことより、山々に囲まれ清らかな水の辺で暮らすほうがましです。それに、繁華する夢は短くて寂しいですから、わたしは絶対これに賛成しません。」と語りました。

和靖先生は常に山水の中でのんびりと過ごしており、彼の一番好んだのが霊隠の一線天(いっせんてん)です。当寺、西湖の水位は比較的に高かったため、孤山から霊隠の合澗橋(ごうけんきょう)まで船が通っていました。船で霊隠に入ることは馬車より趣(おもむき)があります。春になって、小船に乗って孤山からゆっくり出ていくと、微かな船の音が鳥声(ちょうせい)と共に、横に斜めになっている薄い影を破って、梅の香りに満ちた舟が霊隠に入る。なんと美しい両岸の自然の風光でしょう。心の奥まで浸み込んできます。ほどなく霊隠寺から鐘の音が聞こえ、空からやってきたその鐘の音は大きくはないが、人々に奥深い仏法を悟らせます。秋にはまた、その風景は一層趣があります。霊隠に船を浮かべ、秋の静かな風情を楽しめます。和靖は「霊隠に船浮かべる人」という詩を書いています。

 

水天相映淡澈溶

水の中に天が映っている。影はあわく澄んでおり、その川の流れも豊富だ」

隔水青山无数重

水を隔て、青山は幾重にもかさなっている」

白鸟背人秋自远

白鳥が人に何も言わずに去っていく、ああ、秋ももう終わるのだ」

苍烟和树晓来浓

「朝、青みがかった濃い煙霧が、樹木を囲みながらやって来る」。

桐庐道次七里濑

「桐廬は風景優美だが、西湖の山水には及ばない」

      彭蠡湖边五老峰

彭蠡湖のほとりには五老峰がある」

辍棹迟回归末得

「かいでこぐことを止め西湖美しさを眺めていると帰ることも忘れてしまう」

上方精舍动疏钟

「山の上の寺院からほのかに鐘の音が聞こえる」

 

詩人の山水への愛着はこの詩からも充分うかがえます。桐廬(とうろ)の七里瀬(しちりらい)と彭蠡湖辺(ほうれいこ)の五老峰(ごろうほう)もすばらしいですが、西湖の山水のほうがさらに清らかです。水と天が相(あい)映じて、一色となります。川を隔てて、青山が幾重もつらなります。遠方の鳥の鳴き声が秋を一層空高くさわやかにします。霊隠(りょういん)にいれば、高僧と禅の理(ことわり)を話し合ったり、一日中素食を楽しんだりできます。また冷泉亭で作詩をしたり、飛来峰(ひらいほう)で猿声(えんせい)を聞いたりします。そうして夕方になると家に帰ります。帰り道では、にわかに鐘の声が聞こえ、その音は正に仙界からやってきた俗世間を離れた涼やかな音でした。和靖は「霊隠寺」という詩も書きました。

 

山堂气相合

「霊隠山ろくと霊隠のお堂は、互いに和してふさわしい」

旦暮日秋阴

「秋の季節、太陽が朝昇り、晩、山に落ちる時のうっすらとした雲煙」

松门韵虚籁

「門を入ったところの松の木々があるかなきかのかすかな音をたて」

 静若鸣瑶琴

「静かでまるでかすかな琴の音に似ている」

       举目群状动

「顔を上げて見ると、山、石、樹木すべてが動いているように思える」

倾耳百虑沉

「耳をそばだてると、(心が静まり)もとあったいろいろな焦りやイライラがなくなる」

按部既优游

「山道にそって、もうずいぶん遊覧した」

此时振衣襟

「もう一度勇気を振るい起こして、さらに前へ行こう」

泓澄冷泉色

「湖は深くまた、広い。しかし冷泉の水のように清涼だ」 

写我清旷心

「(清くかつゆったりとした)私の心をそのまま映したようだ」

飘摇白猿声

「遠く遠く白猿の鳴き声が聞こえてくる」

答我雅正吟

「私の詩歌に答えるかのようだ」

经台复丹井

「私は経台をめぐり、丹井を通り過ぎる」

扪萝尝遍临

「羅夢処があれば、どこへでも行って見て、この手で触ってみよう」

鹤盖青霞映

「白鶴は青天に霞みとともに飛び」

玉趾苍苔侵

「こけの上にその爪痕(つめあと)を残す」

温颜照乔木

「樹木は高く茂っている、優しい陽光のもとで沐浴するように」

真性讶幽禽

「これら自然の真性は常にはその姿を表さない鳥たちを驚かせる」

所以仁惠政

「仁慈、知恵の政治もこういうふうなのだ」

及物一何深

「深く一人ひとりの魂にまで及ぼし」

洒翰嶙峋壁

石だらけの山肌に、墨跡を残す」

近驾枋檀林

「ここは枋檀林に近く、かつて皇上もおいでなったことがある」

回瞻牢堵峰

「牢堵峰を振り返ると」

天半千万寻

「千万遍も捜し、やっと空中に掛かっているのを見つけた」

 

詩人にとっては、霊隠は絶好の遊歴(ゆうれき<各地を旅してまわる>)の地でした。飛来峰は常に変化し、また静寂そのものです。冷泉の水も甘くて俗世のわずらわしさを取り除きます。白猿の叫び声も優れた詩作に呼応しています。晒経台(さいきょうだい)、煉丹井(れんたんしょう)はまだ残っていますが、その時の人々はもう既に去っていってしまいました。皇帝の宸筆(しんぴつ<皇帝の直筆>)は石崖に刻まれていますが、皇帝も既に去ってしまいました。振り向くと峰峰が幾重にも重なり合い、天に向かって聳えています。静寂とした連峰の中では、詩人の心だけが遠いところへ舞って行きます。

和靖は孤山に隠居していましたが、常に世間の人に邪魔されていたため、転居しようと思って、以下の詩を作りました。  

 

山水未深猿鸟少「山水が深くなく、鳥猿が少い」

此生犹拟别移居「一生引越ししても、まだ別のところへ行きたいと思う」

直过天竺溪流上「いっそ天竺の小川に行きたい」

独木为桥小结庐「谷川の木橋をわたり、庵を結ぶ」

孤山は繁華街に近く、船で少しの時間で行けます。和靖の名を慕って訪ねてくる人が跡を絶たないため、和靖は転居しようとしました。上天竺(じょうてんじく)には谷川を渡す一本橋があって、その橋の隣に新しい家を建てようとしました。上天竺でしたら、訪問者はただ時間をかけるだけで着けたところで、どんなに遠く隠居しても、きっと見つかってしまうので、結局この考え方は実現されませんでした。それに、上天竺に住んだら、友達は日帰りできなく、晩きっと泊まるから、一層面倒くさくなります。「大隠(悟りきっていて、俗事に心を乱されない隠者」は世間から離れていることから、友人の訪れを断る必要もないと思って、和靖は孤山に住み続けていました。

臨終の際に、絶句を書きました。

湖上青山対結廬

「生涯、私は湖辺の青山と対面して庵を結び住んだ」

墳前脩竹亦蕭疎

「死んだ後は、墓前に細竹を植えてくれれば、物寂しくても何も構わない」

茂陵他日求遺稿

「もし、皇上が私の残した詩文や遺稿をお求めになったら」

猶喜曾無封禅書

「政治向きの本(封禅書)がその中にないのが、やはり幸いなことである」

 

その後、庭の前を歩いて、そこにいたある鶴を指しながら、「わしは立ち去ろう。南山の南や北山の北、お前に任せる、行け!」と言いました。また梅の木へ「三十年来、十分お前の美しさを楽しんできた。今後、満開も枯れるもお前に任せる」と語りました。彼は天寿を全うして世を去りました。享年83歳でした。

 

 

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