大悲法師は解放後の霊隠寺の方丈で、湖北省の安陸県出身、1893年生まれで、1971年卒。1916年に武昌中華大学政治経済学部を卒業し、1923年、出家した。大悲法師は仏学に造詣が深く、仏教界で非常に評価が高い。かつて多くの名山大寺で要職を勤めていた。例えば、上海市の留雲寺、寧波市の天童寺(てんどうじ)、北京の広済寺、上海の竜華観音寺などで方丈を務めたことがある。また、中国仏教協会及び中国菩提学会の常務理事、浙江省政治協商会議の常務委員会委員、浙江省人民代表大会の代表を務めたこともある。大悲法師は仏教界の評判の高さから、要望に応じて、重要な国家的な行事に参加したこともあった。
1956年5月、中央政務院(中国国務院の旧称.1949-54年まで用いられた)から浙江省の関係部門に電報が届いた:「大悲法師に直ちに上京していただく。重要な外交活動のため」と。当時、全国にわたって所謂「胡風反革命集団案」が徹底的調査されていたので、大悲法師もこれらのことについて聞きたいことがあるから、上京されたしという知らせが届いたと思い、確かに驚いた。もしかしたら自分が北京に護送されて審査でも受けるのではないだろうかと勘違いしたのである。大悲法師は半信半疑で都に向かって出発した。先ず列車で上海に着き、それから飛行機に乗って北京に向かった。当時、大悲法師は北京広済寺の方丈を兼任していたので、北京に着いた後、ずっと広済寺に泊まっていた。実はこの時、東南アジアのある国の政府代表団が北京を訪問しに来ていた。この国は仏教を信仰する国で、仏教を国教としていたので、一つの寺院を参詣したいという願いを出した。周総理はわざわざ仏学において造詣の深い大悲法師を招き、上京してもらい、この重大な任務を任せたのである。
当日、この国の代表団が我が国の政務院の指導者の案内で広済寺を参詣に来た。大悲法師は仏教の掟に従って、重々しいもてなしを行なった。広済寺の正門が開け放され、鐘、鼓が一斉に鳴り響き、本堂で香が焚かれ、僧侶たちが列を作って、貴賓を待っていた。そして大悲法師自身は坐禅をしながら待っていた。
この国の代表団はもう既に広済寺に着いていたが、大悲法師はなお坐禅を続けて、出迎えもしなかった。寺内の執事(事を執り行う人)の案内で、代表団が仏像の前に来た。彼らは大悲法師を見て、敬虔な仏教の儀礼をもって大悲法師を拝した。すると、大悲法師が座から降りて、貴賓一行をそっと起こして、そして応接室まで案内してお茶を飲みながら語り合った。会話の中で、その深くて広い仏学知識をもって、臆することなく語る大悲法師は、現場の貴賓たちの賞賛をあびた。参詣活動が終わった後でも、政務院の指導者は大悲法師の出迎えの儀礼についてあまり理解できなかった。この国の代表団のメンバーは、総理、裁判官、をはじめとして皆身分が極めて高い人たちであった。しかし、大悲法師は正門の前でお待ちしなかったどころか、尊敬すべきお客さんが彼の席の前まで行って参詣したとは、何といっても、失態を演じたと官員は考えたからであった。しかし、大悲法師ははっきり悟っていた:この国における仏教の歴史が非常に長く、すでに整った仏教制度があり、しかも僧王も設けている。寺院は掟が厳しい。すべての僧侶の中で、ただ一人が和尚と称される。それは言わば寺院の住職である。殘りの僧侶は皆比丘と呼ばれる。住職の和尚は寺院の僧宝を象徴する。だから、寺院に参詣しに来た人々が住職を参詣することは釈迦を参詣することと同じである。もし大悲法師が正門で貴賓を迎えたら、それは威厳を損なうだけでなく、仏教の掟にも合わない。しかもこの国のお客様も不安に感じてしまうかもしれない。「わしがこんなふうにするのは仏教の儀礼に則っているのです」と、大悲法師はその後こう言った。
正に大悲法師の言ったとおり、この国の政府代表団が中国での訪問を終えた時、中国の中央の指導者が彼らに意見を求めた。彼らは大悲法師を高く評価し、大悲法師が仏学において造詣が深く、修養を積んでいる珍しい大和尚だと認めていた。周恩来総理は大悲法師を懇ろにもてなし、外国からの貴賓を見事に迎えたことに対し、熱烈な祝賀の意を表した。
二か月後、霊隠寺に戻ってきた大悲法師は、気がかりな不安が消し飛んだ。興味津々でその時のことを語りながら、何度も中国共産党の宗教政策を称賛した。
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