霊隠逸話
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杭州の僧の「奏対」

 むかし、帝王が出家者を招き、法を問うことを「奏対(そうたい)」と呼んでいました。皇帝が気に入った僧には賜号(しごう<号を賜う>)又は賞金が贈られました。杭州の高僧と朝廷の奏対の内容は時代によって、変化しています。

 唐代の大歴年間、儒教を以て禅を排斥する風習が現れました。径山寺(きんざんじ)の高僧、法欽禅師(ほうきんぜんじ)は代宗(だいそう)の命により、上京しました。そして、法要が聞かれた時、法を護るのに力を尽くしたので、「国一禅師」(こくいつぜんじ)と称されました。

 北宋の末に、徽宗(きそう)は「廃仏」(すうどうはいぶつ)<道教を崇拝し、仏教を排斥する>ことを主張したので、下天竺(げてんじく)の法道法師(ほうどうほうし)は『上徽宗皇帝改僧道士疏(徽宗皇帝に僧を道士に改める疏<臣下が奏上する文書>)』を上書しましたが、入墨(いれずみ)の刑を受け、放逐させられました。

 南宋の孝宗(こうそう)が霊隠へ参拝した時、堂慧遠かつどうえおんは孝宗を飛来峰へ案内しました。孝宗に「飛び来たった山なのに、どうして飛んでいかないか?」と聞かれると、慧遠は「一動は一静にしかず(動くことより静かに動かないほうがよろしゅうございます)」と答えました。そして、上天竺に着き、「観音様は念珠を持っているが、誰のために祈っているか?」と聞かれて、「自身のために祈っています」と返事しました。また、「なぜか?」と聞かれ、「他人より自分に頼るほうがましです」と言い返しました。「観音はまた何を祈っているか?」という皇帝の質問に、「陛下が一日も早く中原を取り返すよう祈っています」と慧遠が答えました。これによって、慧遠は後世に「義胆熱腸(ぎたんねっちょう<義に正しく、熱い心の持ち主>)」と言われました。

 元代の初期に、霊隠寺の住職であった虎岩浄伏(こがんじようふく)は上京し、世祖(せそ)に仏教禅宗の宗旨を述べ、また「戒殺(殺生を禁じること)」の実行をすすめました。世祖は感動し、高僧を封しよう(爵位を授けよう)としましたが、虎岩はこれを受けずに霊隠寺に戻ってきました。

 清の乾隆(けんりゅう)三十年(1765年)の閏(うるう)二月、皇帝が霊隠寺へ参拝しに来、住職の玉山(ぎょくさん)と奏対しました。この奏対は歴史上、最後のものだとされます。乾隆は線香を仏壇の前に供え、玉山は磬(けい<僧を招集するために叩く銅製の器具>)を叩いていました。参拝が終わってから、玉山は皇帝に感謝を表しました。皇帝は「住職か?」と聞きました。「はい、住職です」と玉山は答えました。「(乾隆)十六年の住職は?」と皇帝は聞きました。「私の師匠の義果(ぎか)です」と返事しました。「二十二年のは?」「後輩の徳元です。」「徳泉はいまどこにいるか?」「もう引退してしまいました」「大師はだれによって推薦されたのか。」「熊巡撫(ゆうじゅんぶ)に推挙されました。」「熊学鵬(ゆうがくほう)ならいい。」と皇帝が言いました。奏対(そうたい)が終わり、玉山は新茶をさし上げたところ、「結構です。仏前に供えてください」と乾隆皇帝は笑いながら言いました。玉山は多くの僧侶を率いて皇帝を見送りました。

 翌日、乾隆皇帝の皇太后、皇后が霊隠へ参拝に来ました。それぞれ線香料を50両と5両賜りました。三日目に、玉山は聖旨を受けて宮殿へ行って線香料550両・生地8反・チベット線香8束・石仏像1体を拝受しました。

 閏二月十五日、清の皇帝は天気を祈るために上天竺を訪れました。玉山は僧侶を率いて皇帝を出迎えました。「雲林の住職か?」と聞かれ、「はい」と玉山は答えました。「字輩各人の名の共通した字>はなにか」と聞かれ、「実です。法喜寺の住職を兼任しています」と返事しました。「実の字輩も参禅できるか?(一般人も参禅できるのか?)」と皇帝は聞きました。「できます」と答えました。「何を祈るか?」という質問に、「万法が一に帰することを参します」と玉山は答えました。皇帝は「一はどこに帰すか」と問いました。玉山は「大清国の聖天子に帰します」と答えました。「それは和尚の考えか?」と質問され、「南無無量寿仏(なむむりょうじゅぶつ)」と答えました。清の皇帝は微笑み、黄金100両・チベット線香8束・石仏像1体を玉山に与えました。

 閏二月十九日に、乾隆が輿で京へ帰る時、玉山は各寺院の方丈たちと一緒に武林門の外まで見送りに行きました。玉山を見た皇帝は、「ここでいい。寺院へ帰りたまえ!」と言いました。

 

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