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白居易と『冷泉亭記』

 「江南忆最忆是杭州。山寺月中寻桂子郡亭枕上看潮头。何日更重游」(江南の憶ひも憶ふは是れ杭州。山寺の月中に桂子を尋ね郡亭の枕上に潮頭を看る。何れの日か更に重ねて游ばん。

この詩、『江南憶』は唐代の詩人、白居易(はくきょい)が杭州刺史(地方の長官)の任期が満了し、杭州を離れる際に書いた別れの詩ですが、永遠の名作として今でも伝わっています。白居易の杭州への思いはまるで西湖の水の如く深く感動的です。長い年月をへても薄れることなく、ずっと後世の人を感動させてきています。

杭州は幸せです。西湖も幸せです。もし、白居易がいなければ、どうして「一湖の清水、一道の緑堤、六井の清泉」を吟味することができるのでしょうか。また、どこから杭州に関する二百数首の詩篇を味わうことができるのでしょうか。

乱花渐欲迷人眼,浅草才能没马蹄。最爱湖东行不足,绿杨荫里白沙堤乱花、漸く人の眼を迷わさんと欲し、浅草、能く馬蹄を没す。最も湖東を愛し行けども足らず、緑楊蔭裡、白沙堤)」;「谁开湖寺西南路?草绿裙腰一道斜誰か開く、湖寺西南の路?草は緑に裙腰一道斜めなり)」;「到岸请君回首望,蓬莱宫在海中央岸に到りて君に請う、首を回らして望むを、蓬莱宮は海の中央に在り)」;「慢牵好向湖心去,恰似菱花镜上行して湖心に向つて去るのは好し、恰ど菱花が鏡の上に行くのと似る)」;「未能抛得杭州去,一半勾留是此湖未だ能わず、杭州を抛ち得て去るを、一半、勾留するは是れ此の湖)」等々の名句は広く知られています。

白居易(はっきょい)、字は楽天(らくてん)、号は香山居士(こうざんこじ)、原籍地(祖先の住んでいたところ)は山西省の太原、河南省新鄭市(しんていし)に生まれました。唐の徳宗貞元十六年(800年)に科挙(かきょ)の進士科(しんしか)に合格し、翰林学士(かんりんがくし)、左拾遺(さしゅうい)、左賛善大夫(ささんぜんだいぶ)などを歴任しました。正直で不正を嫌う性格で、「諫臣」(かんしん<君主によく忠告した大臣>)として有名で、権力者の機嫌(きげん)をそこね、江州(現江西省江市)の司馬(しば<官名>)に左遷(させん)されました。その後、忠州(現、重慶市今忠県)の刺史(地方長官)となりました。

少年の時、父親の白季庚(はくいこう)にしたがい、江南に避難した時、杭州には非常にいい印象が残りました。「余杭乃名郡,郡郭临江汜……闻有贤主人,而多好山水余杭は乃ち名郡にして、郡郭は江汜に臨む。…賢主人が有りと聞き、而して好山水が多い)」。長慶年間、朝廷内に「朋党の争い」が起こり、河北あたりで戦乱が起こりました。白居易は何回も皇帝をいさめましたが、皇帝に受け入れてもらえませんでした。「済世は終に無益なり」と思って、自ら地方官に就任するように願い出、唐の穆宗の長慶二年(822年)、杭州の刺史(地方長官)となったのです。ずっと前から杭州に憧れていましたが、官途(かんと)がうまくいかなかったので、意気消沈(いきしょうちん)していました。『舟中晩起』という詩の中で、「退身江海应无用,忧国朝廷自有贤。且向钱塘湖上去,冷吟闲醉二三年江海に身を退けて應に用無かるべし、国を憂へて、朝廷、自ら賢有り。且く銭塘湖上に向つて去り、冷吟閑酔して二三年)」と詠んでいます。

もともと杭州で「冷吟閑酔(れいぎんかんすい)」したかった白居易は杭州に来た後、知らないうちに西湖の美しさに魅了されました。銭塘湖の堤(つつみ)を建設したり、長年詰まっていた六井(ろくせい<六つの井戸>)をさらったりすることにしました。在任中に、民衆に幸せをもたらし、民衆から大変感謝されました。これに対して、白居易はただ淡々と笑いながら、「唯だ一湖水を留め、汝に与えて凶年を救わん」と言いました。

暇な時、白居易が最も好んだのは自然の中に身を置き、詩を詠むことでした。その中でも霊隠が一番好きな所でした。『宿霊隠寺』の中で次のように言っています:

  在郡六百日郡に在って六百日

入山十二回山に入ること十二回)、

宿因月桂落月桂が落ちるに因りて宿り)、

醉为诲榴开榴が開こうと誨える為に酔う)。

黄纸除书到黄紙の除書が到り)、

青宫诏命催青宮の命が催す)、

僧徒多怅望僧徒に望が多い)、

宾从亦徘徊賓従も亦徘徊す)。

寺暗烟埋竹寺が暗く煙は竹を埋め)、

林香雨落梅林に香雨は梅を落す)、

别桥怜白石別橋は白石を怜れ)、

辞洞乱青苔辞洞は青苔を乱す)。

渐出松问路漸く松問路を出て)、

犹飞马上杯(猶上で杯を飛ばし)、

谁教冷泉水誰か冷泉水を教えよう)、

送我下山来我を送りて山を下りて来る)。

 

「六百日」に、「十二回」山に入ったことは、確かに多いと言えるでしょう。白居易は霊隠寺及びその周辺の風景に対して非常に興味を持っていたことが十分に分かります。更に、『霊隠寺』という詩の中でもこう詠っています:

  一山门作两山门一山門は両山門と作す)、

两寺元从一寺分両寺は元に一寺より分かれた)、

东涧水流西涧水東澗水は西水から流れ)、

南山云起北山云南山雲は北山雲から起こる)。

    前台花发后台见前台の花が発くと後台で見え)、

上界钟声下界闻上界の声が下界で聞こえる)

    遥想吾师行道处遥かに吾が師の行道処を想い)、

天香桂子落纷纷天香と桂子は紛々に落ちる)

 

白居易が霊隠を好んだ原因で、比較的重要なのは、霊隠、天竺、韜光諸寺の僧と親しく交わったことです。暇な時、僧たちと遅くまで語り合って、僧の招きに応じて寺に泊まることさえありました。霊竺諸寺の僧の中で白居易ともっとも親しかったのは韜光庵(とうこうあん)の韜光禅師(とうこうぜんじ)でした。韜光禅師は四川出身の僧侶で、師匠から別れて行脚を始めようとする時、師匠に「天に遇えば即ち留まり、巣に遇えば即ちに止まるべし」と言いつけられました。唐の穆宗の時、韜光禅師は杭州霊隠山の巣構塢(そうこうう<地名>)まで行脚してきました。

間もなく、白居易が杭州の刺史となり、杭州までやって来ました。その時、韜光禅師は、「ああ!奇遇だ!果たして『天』(白居易、字が楽天)と出会い、更に『巣構塢』と出会った。ここが師匠の教えてくれた留まるべき所だ」と言いました。そこで、そこに寺を建てて定住することにしました。

韜光庵は素晴らしい景色を持っているところです。霊隠寺から韜光庵に行く途中には、山道が曲がりくねり、古木の影がゆれ、青竹が日陰を作り、木の枝が豊かに交差しています。満面が緑で奥深くひっそりとし、草の香りが鼻をつきます。禅院から鐘の音が響き、泉の水がさらさらと流れ、合わせて聞くとまるで神が演奏している音楽のようです。庵楼に立って眺める銭塘江は、まるで銀河から落ちた白絹のようで、遥かに天と地が交わる所と接しています。このような景色を望めると、心が広々とし、気分も爽快になります。こうしたわけで「韜光観海(とうこうかんかい)」という銭塘江の名所はずっと昔から有名になりました。

白居易は韜光禅師と初対面でありながら旧知のように意気投合(いきとうごう)し、常に詩のやりとりをしていました。韜光禅師はかつて白居易を招き、韜光庵のために記念の字やことばを書き記すように頼んだことがあります。白居易は「法安」という二字を残したので、後世の人は韜光庵を「法安院」という名で呼びました。しかし、韜光禅師自身の名声があまりにも大きかったので、すぐに「韜光庵」という名前に戻りました。白居易はよく韜光庵に行って韜光禅師の邪魔をしたので、お礼のため斎戒の食事を準備して韜光禅師をもてなそうとしました。「命师相伴食,斋罢一瓯茶師に命じられて相い伴食せしめ、齋し罷りて一甌の茶)」と。白居易は、精進料理を用意すれば、韜光禅師が来るはずだと思っていました。しかし、韜光禅師は来ませんでした。それどころか、白居易に一通の手紙を送って、その名声を重んじ、修行隠遁(しゅぎょういんとん)の意を表しました。その手紙はには一首の詩がしたためてありました:

山僧野性好山林山僧、野性で山林好み

每向岩阿倚枕眠岩石に向かうと枕に凭れ眠る

   不解栽松陪玉勒松を植え玉勒に付き添うが解けなく

   惟能引水种金莲唯引水して金蓮を植えるしかるべし

     白云乍可来青嶂白雲は忽ち青山に漂うことができ

      明月难教下碧天明月は青天から降りかねる

     城市不能飞锡去都市は錫を飛ばすこと能はず

      恐妨莺啭翠楼前(鶯が翠楼前で囀るのを妨すが恐れる

 

白居易の霊隠との縁はこれだけではありません。彼が書いた『冷泉亭記』(りょうせんていき)によって、彼自身のこと、そして亭のことも千年にその名を残しました。当時から杭州官府(杭州の役所)には、杭州に来た刺史が必ず景色のいい所に亭を建て、志を託すという習慣がありました。例えば、刺史の相裡(そうり)は霊隠山の谷間に虚白亭(きよはくてい)を建て、刺史の韓皐(かんこう)は候仙亭(こうせんてい)を建て、刺史の裴常棣(はいじょうてい)は観鳳亭(かんほうてい)を建て、刺史の輔(ろげんふ)は見山亭(かんさんてい)を建てました。その後、右司郎(官名)の元写(げんしょ)は杭州刺史となり、冷泉亭(れいせんてい)を建てました。冷泉亭が長年、ずっと有名だったのは、白居易が『冷泉亭記』を書いたからです。もともと、霊隠山の水は人々によく賞賛されてきました。しかし、霊隠に建てられた沢山の亭の中に、冷泉亭だけが昔から名高く、今でも堂々と聳え立っています。おそらく「亭は人に因りて顕れる」という理由からでしょう。白居易は『冷泉亭記』で、「東南の山水では、余杭が最もと為す。郡に就いては則ち霊隠寺が尤もと為す。寺に就いては則ち冷泉亭が甲と為す」と述べています。たぶん、同じく刺史であるのに、白居易はなぜ亭を建てなかったのかと疑問を持つ人がいるかもしれません。「五亭を相ひ望み、指の列の如き、佳境はるなり。敏心巧目が有れども、復た何ぞ加ふる?」という彼自身の言葉から明らかなように、亭はすでに多くあるので、もう一つ亭を建てても何の益もないと思ったからです。亭を建てることより、むしろ亭のために記文(記念の文)を書いたほうが有意義で記念になるかもしれません。一念の間に、下筆の余り、冷泉亭はその後今日まで伝わり、白居易も冷泉亭と切っても切れない詩人となってしまいました。よく「白居易題記冷泉亭」と言われますが、やや章回小説(古典白話小説)の勢いがあるような気がします。白居易は『冷泉亭記』を書いただけでなく、更に「冷泉」という二字を亭の扁額(へんがく)に書きました。「冷泉亭」の「亭」の字は二百年後の北宋の大文豪、蘇東坡(そとうば)が書いて補ったものです。これも霊隠と冷泉亭の美談として伝わっています。勿論、白居易は冷泉亭だけではなく、候仙亭など他の亭のために詩句も書きましたが、「冷泉亭」だけが有名です。それは恐らく、冷泉亭がまるで神仙の住むような美しい場所にあるからでしょう。王白廷の『冷泉亭』という詩では次のように冷泉亭のある場所が描写されています。

灵山本清静(霊山は本清静で)、

一泉渟其中一泉は其の中に渟る)、

灵山孤飞来(霊山は孤り飛来し)、

此水将无同(此の水は将に無同なり)。

山影厌不尽(山影は厭つて尽くさざらん)、

照见天玲珑(天玲瓏を照らし見る)。

分明千尽冰千尽氷を分明し)、

不独疑寒虫(独り寒虫を疑わない)。

京洛多风尘(京洛に風塵が多く)、

到此一洗空(此に到れば空に一洗し)、

炎寒无二心(炎寒は二心無く)、

凛有操者风(凛は操者の風が有る)。

留然守空梵(留然として空梵を守り)、

万劫岂终穷(万劫は豈に終り窮すか)、

骊山有温泉(驪山に温泉有り)、

虚筑华清官虚しく華清官を築く)。

 

こんな麗しい景色のほか、白居易の素晴らしくて覚えやすい詩があるので、「冷泉亭」は後世まで有名なのです。

白居易は杭州刺史の任期を終え、杭州を離れようとする時、惜別の気持ちに堪えがたく、「処処頭を回らし尽く恋うるに堪へたり、就中に別れ難いのは是れ湖辺なり。」と言っています。白居易が杭州を離れる際に、民衆が見送りに来た場面も本当に感動的です。白居易は『別州民』という詩の中で、次のように詠っています

耆老遮归路耆老は帰路を遮り)、

壶浆满别筵壺漿は別筵に満ちる)、

甘棠无一树甘棠は一樹も無く)、

那得泪潸然那んぞ泪が潸然に得ん)。

税重多贫户税が重く、貧戸が多い)、

农饥足旱田農が飢え 旱田が足し)、

    唯留一湖水唯だ一湖水を留め)、

与汝救凶年汝に与えて凶年を救わん)。

 

 白居易はなつかしい民衆と別れて、未練たっぷりに洛陽へ向かいました。出発に当たって、「唯だ天竺山に向いて、両片の石を取り得たり。此の抵は千金有り、これ乃ち清白を傷りし無からんや」と、詩を詠みました。杭州を離れた後、杭州への思い入れが深く、『寄郡楼』という詩も作りました。

  官历二十政官として二十政を歴し)、

宦游三十秋宦として三十秋を遊ぶ)。

  江山与风月江山と風月)、

最忆是杭州最も憶うのは是れ杭州なり)。

 

白居易はよく自分のことを「三年刺史と為りて、政無く人口に在り」、「不才に空しく飽暖し、飢貧に及び恵むこと無し」、「更に一事が無く、風俗を移る」と謙虚に言っていますが、杭州の恩恵を否定できないことでしょう。その功績といい、その詩文といい、後の蘇東坡以外に匹敵する人はありません!したがって、「杭州は若し白と蘇<白居易と蘇東坡>が無ければ、風光が一半で、西湖が減る」と言った人もいます。まったくその通りです。

唐の長慶四年(824年)、白居易は杭州を離れた後、二度と帰って来ませんでした。ただ、その杭州への強い思いは千年を経ても変わったことがないのです。

江南忆,最忆是杭州!山寺月中寻桂子,郡亭枕上看潮头。何日更重游?江南の憶ひ、最も憶ふは是れ杭州!山寺の月中に桂子を尋ね、郡亭の枕上に潮頭を看る。何れの日か更に重ねて游ばん)。

 

 霊隠諸寺は依然として存在しています。禅院の鐘の音も依然として聞こえています。「冷泉亭」は相変わらず清い泉の中にすらりと立っています。しかし、詩人たちはすでに鶴に乗って世を去っていきました。いくら呼んでも、いくら叫んでも決して帰ってこないでしょう。

 


 

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