貫休(かんく<852~913年>)は唐末五代時代の僧侶(そうりょ)で、詩人また画家でもありました。俗姓は姜(きょう)で、字(あざな)が德隠(とくいん)でした。浙江の蘭溪(らんけい)の人です。貫休(かんく)は若いころ出家し、行脚しながらいつも詩を書いていました。貫休はまた仏画が得意で、画風が古拙(こせつ<古風で純朴>)で、力強かったです。描かれた仏像は眉が黒く、目が大きく、耳が長く、鼻が高いため、人々に「梵相(ぼんそう<インド風な顔立ち>)」と言われます。貫休は草書にも優れ、自然で奔放な書風が得意でした。唐朝の有名な草書書道家である懐素(かいそ)にたとえられ、その書体は「姜体(きょうたい)」と呼ばれていました。貫休には『十六羅漢像』『高僧像』『維摩像』『須菩提像』などの画作とともに、詩作『禅月集(ぜんげつしゅう)』があります。貫休の詩文は絵画とともに有名です。
唐の天復年間(西暦901-903年)、貫休は霊隠寺に住んでいました。この間の生活を貫休はとても懐かしく思っています。これは杭州の友人への詩文『杭州の宋震使君に寄す』から窺うことができます。
罢郡归侵暑「杭州を離れて熱気激しい故郷に帰る」
仍思灵隐居「今も霊隠に住んでいた時のことを思う。」
僧房谢朓语「僧坊には謝眺の詩を掛け、」
寺额葛洪书「寺の扁額(文字を書いた額)には葛洪の書があり、」
月树猕猴睡「月桂樹には猿が眠り、」
山池菡萏疏「山の池には菊の花がまばらに咲いている。」
吾皇爱清静「私の皇上は清潔を愛し、」
莫便结吾庐「私がここに庵を結べないことに心を砕く。」
貫休(かんく)の生きていた時代は呉越王、銭鏐(せんりゅう)が杭州で大活躍していた時期で、史書では「呉越の治(ごえつのち)」と呼ばれます。銭越王は出身は貧しかったですが、銭塘江に堤防を築き、杭州を「地上の天宮(てんきゅう<天帝の住む所>)」と呼ばれるほど、江南の重要な町に発展させました。政権を握った後は、仏教の発展に大いに力を入れたと同時に、数多くの優れた人物を育成しました。有名な皮日休(ひじつきゅう)、羅隠(らいん)、胡岳(こがく)などが銭越王に厚遇された人たちです。これらの名士と親しく交わるため、銭越王も自発的に詩文を学び始めました。そうするうち、当時の多くの名士たちが銭越王の名を慕(した)って集まってきました。画僧貫休もその内の一人でした。貫休にはこういう詩文があります
贵逼身来不自由「富貴が身を圧すると人は不自由になる」
几年辛苦踏山丘「私は数年間苦労を重ね山に登り多くのところを尋ねた。」
满堂花醉三千客「銭越王の華麗な宮殿で三千人の客人が酒に酔う」
一剑霜寒十四州「銭越王の軍隊は、十四の州の土地を統治す」
菜子衣裳宫锦窄「平民のインテリは粗末な衣服を身にまとっているとはいえ、絹の官僚の服よりずっと着心地がいい」
谢公篇咏绮霞羞「謝公の詩篇を吟詠すれば、美しい霞みさえ恥ずかしく思う」
他年名上凌云阁「もし将来天下に名を揚げることがあれば」
岂羡当时万户侯「当寺の官僚貴族は何の羨む価値もなくなる」
銭越王は貫休の詩文をとても気に入っていましたが、「満堂の花、三千の客を酔わしめ、一の剣、十四州を寒がらしむ」という句にある「十四州」を「四十州」にしたほうがいいと思っていました。呉の越国は国土が狭く、国力が弱かったので、国を富強にしようと思った銭越王は、「小」を意味する文字を嫌ったのです。そして、銭の越王は貫休を引見しようとしていました。ただし、「十四州」を「四十州」に改めるのがその条件でした。
期待を持って銭の越王の引見を待っていた貫休は、やっと引見してもらったが、条件のことを聞いて怒り、「州は添え難く,詩もまた改め難い。閑雲孤鶴がなぜ空を飛ことができないか?」と言い、袖を払って憤然と立ち去っていきました。
高潔で流浪する暮らしに慣れていた貫休は、銭の越王の意に従い、「十四州」を「四十州」に改めることができませんでした。霊隠寺に泊まっている時に書いた飛来峰を詠んだ詩にはその気持ちが明らかに見られます。
元是西天住「もともとこの山は西天のものでしたが」
飞来莫去休「ここに飛んできてのち去らない」
未辞仙佛国「仏様のいらっしゃった神仙国と別れを告げず」
好是帝王州「かえってこの帝王統治下の国が好きになった」
彼树亦如寄「山上の樹木は、菩提樹と同じように、我々信徒の心霊を託すことができる」
吾生应更浮「私の一生はもう一度世間に出て、山林に戻るべきだ」
白猿呼不应「白猿は一声一声互いに呼び合わない」
松露滴猕猴「 見よ、松の木の露が一滴一滴と猿の体の上に落ちる」
貫休は杭州を離れ、四川に行き、詩を以て孟知祥(もうちしょう)に面会しようとしました。詩の中には「一瓶一鉢は垂老を垂れ,千水千山は得来を得た」という一句がありました。知詳はこの詩をとても気に入って、貫休のことを厚遇しました。その後、貫休はまた前の蜀国の王建(おうけん)に礼遇され、紫衣の袈裟及び法号「禅月」を賜って、「禅月大師(ぜんげつだいし)」と称されました。梁の乾化二年(西暦912年)にお亡くなりになりました。享年81歳でした。
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