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周総理と霊隠寺の再建

霊隠寺は杭州で一番古い名刹であり、東南佛国の五山十刹の一つでもある。広範な信者たちが参詣し、恭しく拝観する聖地であるだけではなく、国内外からの観光客も多く訪れる国際的観光地でもある。霊隠寺は東晋の咸和元年(紀元326年)に建立された。その創建者は慧理和尚(えりおしょう)という西インドの僧侶であった。現在約千七百年の歴史がある。年月の経過とともに、幾度かの盛衰を経てきたが、今、杭州の解放された観光地として、霊穏寺は最も重要なところとされている。毎日、おびただしい観光客と参拝客がここへやって来る。最も多い時には一日6、7万人にも達している。現存する大雄宝殿は中華人民共和国が成立した後に立て直されたものである。さてこの霊隠寺の再建の当時、周恩来総理の特別な関心が不可欠なものとなっているのである。

19497月のある日、霊隠寺の本堂が倒れた。本堂の真ん中にある長さ28メートルの棟木が折れて、屋根が傾いて、下にある三体の仏像が押しつぶされてしまったのだ。倒れた原因は、主に本堂が木造で、長い間、修復工事を行っていなかったのと、長雨が続き、木材が腐ってしまい、さらに白蟻に腐食され、ついに、その棟木がたえられなくなり折れてしまったのである。当時の杭州は解放されたばかりで、まさに国家が再建されようとしている時であり、政府もその修繕を顧みる余裕がなかった。そこで、寺は安全のため、直ちにその本堂を閉鎖することにした

 1951年夏、政務院(中国国務院の旧称。1949-54年まで用いられた)総理を務めていた周恩来氏が公務で杭州を視察しに来た。その間、省、市の指導者が周総理に霊隠寺の本堂が倒壊したことを報告した。また修繕の提案も出した。この事については、周総理は非常に重視し、「杭州の霊隠寺は国内においても、海外においても、仏教界と大衆の中で大きな影響を持つ。我々は霊隠寺を修繕することを通して、国内の仏教信者たちの参詣の需要を満たすだけでなく、東南アジアの仏教を信仰する国からの支持をも得ることができる。我々は無神論者ではあるが、しかしながら、我々は史的唯物論者でもある。だから、仏教徒の信教の自由とその気持ちを十分に尊重すべきだ。しかも、霊隠寺は千年の古刹だから、政府から保護を受けるのも当然のことだ」と指摘した。周総理の支持と関心で、省人民委員会が霊隠寺を修繕する計画書と予算案を提出し、政務院に申請した。その後、政務院がただちに許可の返事を出し、その修繕計画が実行された。同時に、120万元(そのうち、一部分は地方からの経費である)の修復費用を支給し、一部分の物資をも配給した。例えば、木材や鋼材、セメント、黄金など、霊隠寺本堂の修繕の為に経済的及び物資的な条件が提供された。

周総理の支持と関心で、1952年夏、民政庁により「杭州市霊隠寺大雄宝殿修復委員会」が発足し、修復工事が始められた。宋雲彬(省文教委副主任)が委員長に、浙江美術学院の鄧白(とうはく)教授や、建築部門の吴寅エンジニア及び霊隠寺住職の大悲法師も修復工事に参加した。本堂の工事は1952年から始まり、1954年まで二年かけてやっと完成した。本堂は鉄筋とセメントで立て直されて、今までもう60年余り経ったが、その様子は昔と比べて少しも衰えていない。当時の修復工事の高い技術水準が証明されている。「文革」以降の1975年、国家はもう一度本堂の修繕の為、130万元の修復費用を支給し、1986年、霊隠寺自身も再度の修繕を行なった。元々本堂の基礎が非常に堅固であったので、毎回の修復工事においては、できるだけ以前の通りになるように修繕したのである。

霊隠寺本堂の修復過程においては、一つのエピソードがある。つまり、仏像を造る過程で、デザイナーと仏教界の人たちとの間に意見の食い違いが起こった。仏像を造る前に、美術学院の教授がある小型の石膏像を作った。デザイナーは勿論芸術の角度から考え、また全国の仏像のデザイン、特に敦煌石窟(とんこうせっくつ)の様式を参照にし、釈迦佛の頭部のヘアスタイルを波状式に、また足を外に出さない様式に設計したらどうかと提言した。その意味は芸術品の角度から、美しい外観を通じて、釈迦佛の荘厳な姿を作り出そうと考えたのである。しかし、この試案は審議の過程で仏教界に反対され、特に杭州市佛教協会準備委員会の人たちと霊隠寺住職の大悲法師に猛烈に反対された。仏典(ぶってん)によると、仏像三十三相の中に「頂髻相(ちょうけいそう)」があり、言わば頭の頂の肉が隆起して髻(もとどり)の形を成している。肉髻(にくけい)とも言われる。彼らから見れば、これこそ仏教の伝統で、波状式に造ってはいけない。それに足は必ず外に出さなければならない。当時、両方がそれぞれの意見を主張して譲らなかった。一時、硬直した状態であった。省政府も両方から意見を聞き、何れも筋が通っていると考えて、このことを政務院に報告した。周総理は自ら指示を下した:「我々が寺院を建てたのは、主に中国共産党の唱えた信教の自由(しんきょうのじゆう)という政策を宣伝する為だ。また、信者たちの信教の需求を満たす為だ。造型美術は勿論必要だが、しかしその最初の考えを忘れてはいけない。仏教界の信教の需求を満たすことがより重要だということを。だから、今度のことはやはり仏教界の意見に従って処理すべきだ」と。

周総理の指示に従って、仏教界の意見を参照しながら、デザイナーは釈迦仏像の髪と足の造型を改めて見直した。最後は今のような仏像造型に造った。修復委員会が周総理の指示に従って、改めてデザインに手を入れ、樟の木で仏像を彫った。仏像は9.1メートル、背光頂には七仏が嵌め込まれている。石の蓮花座から背光頂までの高さは19.6メートル、全部金で貼られている。蓮花座が3メートル高く、金で貼られ、須弥座が2 . 5メートル高く、金で貼られて彩られている。その石台も改めて彫刻され、高さ2メートルあった。仏像の上に宝蓋がかかり、彩っている。仏像の高さは24.8メートルである。このような高さから考えれば、樟の木彫りの坐像としては中国で最大のものであろう。仏教界の人士から拝謁を受けるだけでなく、国内外の大衆からも称賛される。

霊隠寺仏像の修復工事は、主に「東陽黄楊木彫工場」の労働者たちが担当した。仏像は全部樟の木で彫刻され、元々仏像自体が非常に大きくて、一つ一つに切られた樟の木でかき集められてできたもので、更にその一つ一つのものが必ず干して乾かしてから加工しなければならない。その過程で少しも変形してはいけない。その故に、工事の規模が膨大となり、技術的にも高い水準が要求された。全部で100余人りの労働者が彫刻工事に参加し、昼夜を分かたず仕事が続けられた。

始めの頃、工事は順調に進んでいたが、ある日、突然修復事務室から報告が届いた。「労働者はもうこれ以上工事を続けて行きたくないのだ。東陽へ戻るつもりで、ストライキを行なっている」と。突然の事なので、宗教事務部門がすぐ調査員を派遣してその状況を調べ、ストライキの原因を明らかにした。その主な原因は技術の指導に当たる一部の労働者、特にその中の共産党員がこれ以上の工事の実施を断わったからである。共産党は無神論者であるため、寺院の為に仏像を彫ったり、また「封建迷信」や「唯心論」など誤った風潮を助長してはいけないと考えていたからである。これは非常に複雑な問題で、行政機関の命令で強引に解決してはいけない問題である。結局、省委統一戦線工作部門の幹部が自ら霊隠寺に来て、木彫り労働者の考えを改めさせるように働きかけた。この幹部は国の関係政策から始め、霊隠寺の修復に対する政府の指示及び修復工事に対する周総理の関心など色々と労働者たちに説明した。また、修復工事と仏像の彫刻が重大な歴史的意義をもつことも述べた。更に、党規約と党の政綱の関係条文を分析しながら、中国共産党として履行すべき義務と権利をも説明した。辛抱強く説得して、教え導くことによって、党員及び労働者たちがやっと仏像を造る意義を理解した。彼らは直ちに職場に復帰して、期待通り早期にまた理想的に、仏像の修復工事を仕上げたのである。

 

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