蘇東坡は二回にわたって杭州の行政官を歴任したことがある。最初の一回は宋の神宗(しんそう)の熙寧(きねい)四年(1071年)、杭州の通判(つうはん)<宋代に創設された地方官>に就任した時であり、もう一回は宋の哲宗(てつそう)の元祐(げんゆう)四年(1089年)に杭州の知事を務めた時である。いずれも左遷されて杭州に来たとはいえ、蘇東坡は落ち込んだりしなかった。というのは当時の杭州は、「上に天国あり、下に蘇州・杭州あり」と称えられ、全国でも名の馳せたところだったからである。蘇東坡にとって、杭州に左遷され、地方の行政官に任じられたことは別に悪いことではないように思われた。「江山故旧,所至如归」(江山は以前の通り変わらない。どこも古里に帰ったようだ)。杭州に着いてすぐ、以下の詩を作っている: 未成小隐成中隐,(まだ山林に棲む小隠はなさず、官に隠れる中隠に甘んじている) 可得长闲胜暂闲。(しかし山林に得る長のつれづれがはたして宮仕えにぬすむ短い余暇にまさろうか) 我本无家更安往,(私はもともと家を持たぬ身、この上どこに行けようか) 故乡无此好湖山。(ふるさとにはこれほどすばらしい湖と山はないのだ) 蘇東坡はどんな境遇にも安んじた。しかし、確かに杭州は彼の故郷の四川とは大きな隔たりがない。ここに素晴らしい山紫水明の景色があるだけでなく、更に名茶や美人も有する。「山寺月中寻桂子,郡亭枕上看潮头」(山寺の月中に桂子を尋ね、郡亭の枕上に潮頭を看る)。グリーンの水面が、晴であれ雨であれ、曇りであれ、彼から見るといつも美しい。西湖を描く沢山の詩の中には、やはり蘇東坡の次の詩句が絶妙だと思われる: 水光潋滟晴方好、(西湖の水面の波が日差しできらきら輝いていて、とても美しい) 山色空潆雨亦奇。(突然雨が降り出した。全てが朧としているが、それにしても風景は依然として美しい) 欲把西湖比西子、(西湖を西施[せいし]に例えたいものだ) 淡妆浓抹总相宜。(厚化粧でも薄化粧でもその美しさは変わらない) 蘇東坡は初めて杭州に来た時、補佐役を務めた。合同審査、訴訟事件の外はあまり仕事がなかった。彼は訴訟事件の処理を一番嫌っていた。というのは、逮捕された人の殆どが新政の法律に違反した庶民で、彼自身も元々その新法に反対していたから、しかたがないことと感じた。しかし、幸いなことに、休みの時、各地の風景を観光して回ることができる。彼は杭州の美しい風光に陶酔し、杭州から離れがたく思った。舟を湖に浮かる時には、文友(ぶんゆう)の他に歌姫(うたひめ)も連れていた。景色も美しいし、人も綺麗。人と風景がしっくりと融け合っている。これを見て、詩人の詩心(詩を作る気持ち)と詩眼(漢詩の巧拙を定める一文字)も普段より一層鋭くなっていた。 湖と街並みの外に、蘇東坡はよく山林や寺院をも回っていた。彼は和尚や歌姫と付き合うのを大変好んだ。当時の大通禅師は、非常に神聖かつ純潔で、もし誰かが彼と単独で話し合いたいと思うのなら、その前に必ず入浴しておかなければならなかった。女性は言うまでもなく、方丈室に入ることはできない。だが、蘇東坡はわざとその厳しい規則を破りたがったように見える。そして、ある日、一人の歌姫連れて和尚に会いに行った。その場ですぐお辞儀をした。大通禅師は蘇東坡の無礼に対して、実に腹が立った。この時、蘇東坡は次のように言った。「和尚さん、もし毎日お経を読む時に使う木魚(もくぎょ)を歌姫に貸してあげたら、私はすぐに一首の謝罪の詩を作り、彼女に歌わせますが、いかがでしょうか」と。 すると、大通禅師は歌姫に木魚を渡した。蘇東坡はすぐ一首の詩を作り歌姫に歌わせた: 师唱谁家曲,宗风嗣阿谁、(和尚さんは今誰の曲を歌っているのか?どの宗派の風習を受け継いでいるの?) 借君拍板与门槌,我也逢场作戏莫相疑。(和尚さんが経を読む時に使う板と槌を借りて、私も禅師の振りをすることができる。こんな時、私は禅師と一緒だからといって、だれも疑わないでもらいたい) 溪女方偷眼,山僧莫皱眉、(遊女が禅師をただ一目見ただけで、すぐに怒って聖潔ぶりをしないでよ) 却愁弥勒下生迟,不见阿婆三五少年时。(弥勒佛の生まれが実に遅すぎたので、おばあさんの若かった時の姿が見えないわ) 大通禅師は落語のような詩句を聞いて、我慢できずに笑い出した。蘇東坡が帰った後、彼は周りの人にこう言った。「私は生き生きとした仏学の授業を受けた」と。 霊隠寺は蘇東坡の好きな場所の一つであった。彼は常に冷泉亭に座って訴訟事件を処理した。処理が終わると、そこでお酒を飲みながら詩を吟ずる。行くたびに、必ず随行員を何人か連れて行く。冷泉亭に着くと、すぐ小役人にテーブルや椅子や筆や墨などを準備してもらい、自分が公文書を開いて事件を裁き始めた。蘇東坡は太っ腹で物事にこだわらない性格で、しかも筆が立つ人だから、差し迫った公務があったら、決して先送りにせず、すぐ人と論争する。事件を裁きながら、談笑する。裁くスピードの速さは常に人々をびっくりさせるほどであった。公務を済ませると、すぐ部下に公文などを取り除かせて、酒や肴を並べて、部下と一緒に楽しむことにした。ほろ酔い機嫌になると、詩興が大いにわいた。夕暮れになると、名残惜しげに屋敷へ帰った。城に戻った時、既に家々に灯火が輝いている。しかも、返るたびに、いつもお酒をたくさん飲み、大勢の人を動かせたので、多くの庶民が寄ってきて、わざわざ彼の姿を見に来た。しかし、庶民たちはこのような地方官吏を嫌がるのではなく、逆に大いに彼を敬愛していた。その気高い感情と雄々しい志が庶民の中に広まっていた。 蘇東坡が書いた霊隠寺に関する詩歌は実に多く、どれもトップレベルの詩句だと言われる。例えば、『冷泉亭送唐林夫(冷泉亭で唐林夫を送る)』 灵隐前,三竺后,两涧春淙一灵鹫。(霊隠寺の前、三天竺の後、南澗と北澗には春淙亭と霊鷲峰がある) 不知水从何处来,跳波赴壑如奔雷。(水はどこからやってきたのか知らず、雷が鳴るように壑雷亭を流れていく) 无情有意两莫测,肯向冷泉亭下相萦回。(わざわざだろうか、それとも無意識的にここを流れるのだろうか、ただずっと冷泉亭を廻って流れているのは有難いことだ) 我在钱塘六百日,山中暂来不暖席。(私は銭塘に来て、六百日経ったが、たまたま山に来るだけだ) 今君欲就灵鹫居,葛衣草履随僧疏。(今、あなたがここにいらっしゃって、葛の繊維でつくられる衣を着、草履を履いて、同じ食事をし、僧侶たちと一緒に生活する、) 肯向冷泉作主一百日,不用二十四考书中书。(一生の内、役人を務めることによって百日であっても冷泉亭の主人になれるのなら、試験など受けなくていい) 霊隠寺の「壑雷亭」、その名前は正にこの詩に由来したものである。蘇東坡の「和李杞题灵隐寺(李杞に和して霊隠寺に関する詩を作る)」という詩は当時の霊隠寺の規模と繁栄を表す詩である。 君不见钱塘湖,钱王壮观今已无。(銭塘湖の景色を見ることができない。銭王の繁栄は今はもうないからである。 ) 屋堆黄金斗量珠,运尽不劳折简呼。(黄金が部屋に積んであり、宝石がたくさんあるので、運ぶのにたいへん苦労だった) 四方宦游散其孥,宫阙留与人间娱。(昔の官僚はもうなくなり、ただ家や殿堂だけが人間世界に残っている) 盛衰哀乐两须臾,何用多忧心郁纡栄枯盛衰は全てあっという間のことで、毎日気がふさぐ必要もない) 溪山处处皆可庐,最爱灵隐飞来孤。(渓流や山の至る所に茅屋(ぼうおく)を建ててもいい、特に霊隠と飛来峰が一番好きだ) 乔松百丈苍髯须,优优下笑柳与蒲。(松が百丈も高く、髭が長く、柳と蒲を笑うように垂れている。) 高堂会食罗千夫,撞钟击鼓喧朝晡。(壮麗な殿堂には何千人の僧侶が集まり、鐘をつき、鼓を打ち騒ぐ) 凝香方丈眠氍毹,绝胜絮被逢海图。(香を焚いた方丈が氍毹(一種の図案のある絨毯)を掛けて眠る。その布団もごくまれで、海図が縫ってある。) 清风时来惊睡余,遂起羲皇傲几遽。(清らかな風に吹かれてすぐ起きあがり、羲皇が天下を見下ろすかのようだ) 归时栖鸦正毕逋,孤烟落日不可摹。(日暮れの時、カラスも獲物狩りを止めて、炊煙、夕日などその美しさを紙の上に描くことが不可能だ) 緊張した仕事の合間には彼はやっと霊隠寺で一晩泊まることができた。床に寝そべて、昔の事を振り返り、時には感慨無量、時には茫然自失である。『立秋宿寺(立秋霊隠寺に泊まる)』という詩の中で正にその気持ちを詳しく描写している。 百重堆案掣身闲,一叶秋声对榻眠。(緊張な仕事の隙には霊隠寺で一晩泊まることができた) 床下雪霜侵户月,枕中琴筑落阶泉。(地面に漂う霜が月の光のようであるが、枕に付きながら、古琴を弾くと、泉の水が落ちるようだ) 崎岖世味尝应遍,寂寞山栖老渐便。(この世に生きて、全ての苦難を味わったことがあるが、今は、一人でこの山奥に寂しく老いていく) 唯有悯农心尚在,起占云汉更茫然。(農民を愛する心はあるが、なぜだろうか茫然自失の気持ちに襲われる) また、『中秋分桂赠杨元素(中秋節に楊元素にモクセイを贈る)』は心の底を表す詩である。 月缺霜浓细蕊干,此花原属桂堂仙。(月が欠けて、霜が濃く、花蕊が枯れた。この花の名前は元々桂堂仙という) 鹫峰子落惊前夜,蟾窟枝空记昔年。(飛来峰の種が落ちて、夜を騒がし、空になった蟾窟の枝に昔のことが記載される) 破械山僧怜耿介,练裙溪女斗清妍。(おきてを破った僧侶としても正直さを持ち、いくら平凡な婦人でもその清潔さを積極的に示す) 原公采撷纫幽佩,莫遣孤芳老涧边。(自分も幽蘭のように、誰かに摘まれて装身具に作って欲しい。高潔の士だとはいえ、誰にも関心を持たれずに水辺で淋しく老いていきたくない) 蘇東坡は常に仕事と観光を結び付けていたが、観光する時にも自分の地方官吏の責任を忘れない。深秋のある日、蘇東坡は仲間と一緒に北高峰に登り、山頂にある瓦の塔を見に行った。彼らは食べ物も用意して、山頂で食事を取ろうと考えた。遊びの最高の時、急に鐘の音が聞こえてきた。見ると、ある小さなお寺が山間にあやふやと現れた。蘇東坡たちはその寺に入り、一人の聴覚を失った年寄りの道士を見つけた。病気のせいで、生活は非常に苦しそうで、食糧もよく切れると聞いた。、たぶん今回だけここに来て、これからは二度とここに来ることはないだろうと思い、、すぐ自分たちの持って来た綿布を道士に送った。また一首の詩句を残した。その名は『北高峰』である。 言游高峰塔,蓐食治野装。(仲間と一緒に北高峰の塔を見に行くと約束して、朝早くご飯を終えて、外出用の衣服を着た) 火云秋未衰,及此初旦凉。(空には赤い雲が漂っており、秋はまだ終わっていないが、山に登って涼しい感じがした) 雾霏龙谷暝,日出草木香。(霧に煙る谷がほの暗く、明け方のとき草木の香りが漂っている) 嘉我同来人,久便云水乡。(古い仲間と一緒に山水を楽しむ) 稍观小举足,前足高且长。(急がないで、ゆっくりと歩こうとした。山が険しく高いから) 古松攀龙蛇,怪石坐牛羊。(山間の風景は非常に美しい。古い松はまるで竜、蛇のように空に伸び、石がまるで牛、羊が坐っているような可笑しい模様をしている。) 渐闻钟磬音,飞乌皆下翔。(だんだん鐘の音が聞こえてきて、鳥も巣に飛んでいく) 入门空无有,云海浩茫茫。(寺に入っても何もない。霧が濃く漂っている) 唯见聋道人,老病时绝粮。(聴覚を失った道士だけを見つけて、病気に掛かることもあり、食糧が切れることもよくあると聞く) 问年笑不答,但指空藜床。(お年はおいくつかと聞いても答えず、ただその粗末な床を指す。) 心知不复来,欲归更傍徨。(二度とここに来ないと分かっているが、帰ろうと思ったらさらに迷った) 赠别留匹布,今岁天早霜。(別れる時、自分が持ってきた綿布を送った。今年は霧が早く降るから) この詩から、蘇東坡がこの貧しい道士に対して豪放な個性を現すことができなくなり、心の底から老人に対する関心と愛が溢れたことが窺える。言葉が地味であるが、地方官吏としての優しさが十分現れた。 蘇東坡は杭州に来て、二回も役人を務めた。現地の民衆に大きな恩恵を与えた。民衆を集め、西湖を整理した。それ以来、西湖が少しずつ清くなってきた。また湖の中に菱とかぶなどを植えた。さらに、湖の真ん中で長い堤を作り、その上にヤナギを植えた。それを遠くから見ると、まるで仙女が緑のスカートをはいたように美しい。人々はここを「蘇堤」と呼んでいる。 蘇東坡は杭州において政治的に非常によい評判を得た。霊隠寺及び僧侶たちに対しても非常に優しかったので、ここを離れた時、僧侶たちは霊鹫山の麓で東坡祠をつくった。毎年彼を祭っている。 「居杭積五歳、自憶本杭人(杭州にいること五年、自らすでに杭州人と思っている)」。蘇東坡は前後二回にわたって杭州に来て、合わせて5年間いた。彼は杭州を自分の二番目の故郷と看做し、杭州の民衆も彼を自分の同郷人と認めている。蘇東坡の魂が偶には杭州に戻って、あちこち歩き回り、彼の作った詩の言ったような西湖がまだ「淡妆浓抹总相宜」であるかどうかを、是非とも見て欲しい。
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