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霊隠寺発展の出来事

  西暦328年

  東晋(とうしん)の咸和元年(かんわがんねん)、インドの僧侶慧理(えり)が中国の中原を行脚し浙江に入り、霊隠山に登った。そこから近くにある峰を見て、どこかで見たことがあるような山だと感じ、「これは天竺(てんじく)にある霊鷲山(りょうじゅせん)の山にそっくりだが、いつここまで飛来してきたのであろう。お釈迦様がご存命であった頃は、多くの仙霊(せんれい)があの山に隠遁(いんとん)していたものだ」とおっしゃった。そこで、東晋の咸和三年、飛来峰の麓(ふもと)に霊院寺を創建した。

  西暦947年

  後漢(ごかん)の天福(てんぷく)十二年、呉越王、銭弘仿(せんこうほう)が霊隠寺の規模を九つの楼(ろう)、十八の閣(かく)、七十二の殿(でん)にまで拡張した。盛時には、僧侶は三千人までになり、異国からの僧侶もよく霊隠寺へお経を求めに来た。

  西暦960年

  後周(こうしゅう)の顕徳(けいとく)七年、呉越王(ごえつおう)、銭弘仿(せんこうほう)が奉化(ほうか)から当時の高僧であった延寿(えんじゅ)を招き、霊隠寺の住持として住まわせる。僧房(そうぼう)を五百室余り新築し、石幢(せきどう)を二基建てる。東に百尺の弥勒閣(みろくかく)、西に只園(しえん)を建立し、合計千三百余りの殿や僧坊を建造する。これらの建築群は廊下が曲がり、山門から左と右の方向を通り方丈室へと繋がっていた。当時ここは「霊隠新寺(れいいんしんじ)」と呼ばれていた。

  西暦1007年

  宋の真宗(そうのしんそう)の景徳(けいとく)四年、霊隠寺は霊隠山景徳寺(れいいんざんけいとくじ)と改名される。

  西暦1021年

  天禧(てんき)五年、真宗(しんそう)が霊隠寺に「景徳霊隠禅寺(けいとくれいいんぜんじ)」という名を御下賜になる。

  西暦1024年

  仁宗の天聖(てんせい)二年、寺院を修繕するため、章懿太后(しょういたいこう)が九千五十四貫を霊隠寺に下賜する。

  西暦1030年

  天聖(てんしょう)八年、寺の僧侶を養うため、章懿太后(しょういたいこう)が杭州と秀州にある肥沃な田畑二枚、合計一万三千畝(ほ)余り(約866ヘクタール)の田地を寺の財産として霊隠寺に下賜する。

  西暦1035年

  景佑(けいゆう)二年、住持の延珊(えんさん)は、呉越王の菩提寺(ぼだいじ)の奉先寺(ほうせんじ)に安置されていた開宝二年(969年)に造られた二基の経幢(きょうどう)を霊隠寺の天王殿の前に運び安置する。

  西暦1049年

  皇佑(こうゆう)元年、皇帝が二枚の刺繍『観音心経』、『回鑾碑(かいらんひ)』及び飛白黄羅扇(ひはくこうらせん)などの皇室御用品を霊院寺に御下賜になる。

  西暦1135年

  紹興(しょうこう)五年、宋の高宗が霊隠寺を「霊隠寺嵩恩顕親禅寺(れいいんじすうおんけんしんぜんじ)」と改名する。

  西暦1167年

  乾道(けんどう)三年二月、宋の孝宗(こうそう)が、毎年仏生日(ぶっしょうにち)<陰暦四月八日>に五十匹の絹織物を禅寺に下賜することを勅命する。

  西暦1170年

  乾道(けんどう)六年、霊隠寺の住持、慧遠(えおん)が称号「佛海禅師(ぶっかいぜんじ)」を下賜される。

  西暦1172年

  乾道八年、宋の孝宗が霊隠寺に行幸になり、慧遠を召して奏対(そうたい)<天子の出した問いに対して、臣下がその場で回答すること>を行い、また、「瞎堂禅師(かつどうぜんじ)」という称号を下賜された。更に、慧遠(えおん)の法堂を「直指堂(じきしどう)」と改名し、瞎堂禅師に「直指堂」の印鑑を下賜した。

  西暦1158年

  紹興(しょうこう)二十八年、霊隠寺は浄慈寺(じょうじじ)をヒントにして、「田字殿(でんうでん)」を建て、五百羅漢(ごひゃくらかん)を作った。一時期、杭州・嘉興地方で「霊隠羅漢(れいいんらかん)は数えきれない」という言い方がよく言われた。

  西暦1208―1224年

  宋の寧宗の嘉定年間(かていねんかん)、浙江の禅寺の評価ランキングによると、径山寺(きんざんじ)が一位、霊隠寺が二位、浄慈寺が三位、寧波の天童寺(てんどうじ)が四位、そして阿育王寺(あいくおうじ)が五位であった。

  西暦1225―1240年

  宋の理宗が霊隠寺嵩恩顕親禅寺(れいいんじすうおんけんしんぜんじ)に元々あった大雄宝殿(だいゆうほうでん)を「覚皇殿(かくこうでん)」と名を改め、「妙荘厳域(みょうしょうごんいき)」という四文字を与える。

  西暦1308―1312年

  元の武宗の至大(しだい)元年、宋の理宗(りそう)から称号を賜った「覚皇殿(かくこうでん)」が朽ちて倒壊しそうになったので、僧侶の慈照(じしょう)、住持の正伝(しょうでん)、平章(当時の官名、「宰相」に当たる)の張締(ちょうてい)の三人が責任を持って覚皇殿を修繕し始め、修繕工事を続け四年かかって、元の仁宗の皇慶(こうけい)元年に竣工(しゅんこう)した。

  西暦1338年

  元の順帝の至元四年、竹泉法林禅師(ちくせんほうりんぜんじ)は浄慈寺から霊隠寺へ移り住み、朝廷から金衣を賜った。竹泉法林禅師は、当時の霊隠寺の宗風を盛んにすることに大きく貢献した。

  西暦1359年

  元の順帝の至正(ししょう)十九年、霊隠寺が戦火により破壊をこうむる。

  西暦1363年

  至正二十三年、住職、輔良は霊隠寺を再建しようとしたが、方丈室(ほうじょうしつ)と伽藍堂(がらんどう)だけの再建に終わった。

  西暦1370年

  明の洪武三年、明太祖(みんのたいそ)朱元璋(しゅげんしょう)は霊隠寺の住持、見心来複を京に召し、説法させた。見心来複の説法に朝廷と民間の人たちは大いに驚き、多くの人々から敬愛された。明太祖は見心来複を「十大高僧」の一人とし、金衣袈裟を与えた。また、「正心」「崇本」「観道」「敬賢」という四箴を勅撰した。ところが、見心来複はその後、「胡惟庸の獄」事件に累を及ぼし、投獄された上、殺害された。この年、霊隠寺は火災により大きく損害を受けた。

  西暦1384年

  洪武十七年、住持、慧明が覚皇殿(かくこうでん)を再建し、霊隠寺を「霊隠禅寺(れいいんぜんじ)」と改名した。

  西暦1403年

  この時期、寺院は資金不足に陥いるが、仏殿内の仏像が永楽元年に出来上がった。僧侶の善才が寄付金を募り、諸天大仏を修繕し供具を備えた。

  西暦1430年

  宣徳(せんんとく)五年、覚皇殿が再び火災により焼失した。

  西暦1432年

  宣徳七年、住持曇纘が左右翼門と面壁軒を建造し直し、住持良階(りょうかい)は曇纘に続いて再び覚皇殿を建て直した。

  西暦1446年

  正統十一年、僧侶弦理が直指堂(じきしどう)を再建し、書家張即之がその扁額(へんがく)を書いた。この時の霊隠寺は、弥勒閣、蓮峰閣、千佛殿、延賓水閣、望海閣及び白雲庵、松源庵などが建てられ、昔の規模に戻ったと言える。

  西暦1569年

  隆慶三年、霊隠寺は落雷により、全ての建物が焼失し、直指堂のみ残されただけとなった。

  西暦1582年

  万歴十年、吏部尚書の張瀚、司寇の陸光祖などが如通法師を招き、霊隠寺の住持を担当させた。如通法師は霊隠寺に来て、お経を講説し始めると、すぐに信者も施主(せしゅ)も多くなった。

  西暦1583年

  万歴(まんれき)十一年の冬、霊隠寺の修繕工事が始められ、五年を費やして完成した。大殿は唐代の建築様式を模してつくられ、平(たいら)な柱、四十八本と石(いし)の柱、十六本が使われ、殿の名も「覚皇殿」から「大雄宝殿」に改められた。

  西暦1590年

  万歴十八年、如通法師は僧侶祓穢と共に理公塔を再建し、正殿に五百羅漢(ごひゃくらかん)を浮き彫りにした壁をつくり、弥勒閣(みろくかく)の跡に三蔵殿を建てた。三蔵殿の後ろには直指堂と方丈室とがある。方丈室の左側には妙応閣、右側には選佛斎がある。当時の朝廷の官員の一人、張瀚は選佛斎のため「記」を書いた。

  西暦1600年

  万歴二十八年、司礼監の孫隆(そんりゅう)が霊隠寺を修繕し、蔵経などを保存するため、三蔵殿に六百三十八函の輪蔵を設置した。輪蔵の左側には四十九灯の薬師灯蔵、右側には百二十五軸の水陸像蔵がある形となった。

  西暦1640年

  崇禎十三年、霊隠寺は再び火災の被害を受けた。大殿と直指堂(じきしどう)などは無事だったが、他の建物は全て焼失した。

  西暦1649年

  清(しん)の順治六年、具徳(ぐとく)和尚は明末に如通(にょつう)和尚が霊隠寺を修繕した時の記録をこと細かく調べた。その結果、当時の修繕費用は合計八万両銀であったことが分かった。しかし、この具徳和尚の時代には、人件費も材料費も全て倍増していたので、百万両銀が最低必要であると思われた。この再建のことに対して当時の僧侶たちは皆、大反対していた。

  西暦1667年

  具徳和尚は多くの人の議論にかまわず、言葉に尽くせない苦労をかさね、十八年を費やして、霊隠寺の面目を一新させた。具徳和尚が修復した霊隠寺は規模が元来のものよりずっと大きくなった。「七殿」「十二堂」「四閣」「三楼」「三軒」などが建てられ、浄慈寺を模して建てられた「五百羅漢殿(ごひゃくらかんでん)」も西禅堂の下に立地し、「田字殿」と改めて名づけられ、全部で五十四室を有するようになった。当時の人々は霊隠寺を「東南第一山(とうなんだいいちのやま)」と呼んだ。

  西暦1689年

  康煕(こうき)二十八年、康熙帝が杭州に南巡された時、霊隠寺に御出でになった。当時の住持諦暉(たいき)は、康煕帝に扁額に揮毫(きごう)することをお願いした。康熙帝は自ら「雲林」の二字をお書きになった。その時から、霊隠寺は「雲林禅寺」と改名された。

  その後、康煕帝は三十八年(1699年)、四十二年(1703年)、四十四年(1705年)の合計三回、霊隠寺にお越しになった。その時に康煕帝がお作りになった詩や、他の関連記録などは全て現在まで禅寺に保存されている。

  西暦1728年

  雍正(ようじょう)六年、当時の総督、李衛(りえい)が大雄宝殿、天王殿及び諸堂字灯楼閣などを修繕した。

  西暦1733年

  雍正十一年六月二日、清朝の国庫から霊隠寺に五百両金が与えられ、また斎僧(さいそう)二千人が配属させた。

  西暦1741年―1744年

  乾隆(けんりゅう)元年、住持の巨濤(きょとう)と嗣法の諦暉(たいき)は、多方面にわたる書物を読み、仏学に極めて造詣の深い僧として、朝廷や民間から尊重された。当時の光禄少卿である揚州出身の汪応庚(おうおうこう)は、霊隠寺へ参拝し、住持の巨濤と初対面ながら旧知のように意気投合し、二万両銀余りを寺に寄付し、大雄宝殿及び他の殿、堂、閣、軒、楼、亭など数十箇所に修繕を施した。更に、五百羅漢を修繕して飾り、その他、合澗橋、龍泓洞、鷲峰径なども修理した。この間、乾隆六年(1741年)十月から乾隆九年(1744年)十月まで、都合三年間という時間が費やされた。

  乾隆年間、乾隆帝が乾隆十六年(1751年)、二十年(1755年)、二十七年(1762年)、三十年(1765年)、四十五年(1780年)、四十九年(1784年)の合計六回、霊隠寺に御出でになった。この時、乾隆帝がお作りになった詩などは、全て石に刻まれて今まで残されて、今は寺の前にある碑(ひ)や亭(てい)の中に見られる。

  西暦1776年

  乾隆(けんりゅう)四十一年、霊隠寺の老朽化が進んだため、布政使の徐恕(じょじょ)をはじめ各司道各府が金銭を寄付し寺院を修繕した。

  西暦1779年

  乾隆四十四年、霊隠寺と天竺寺は住持が一人であったため、、仕事に忙殺された。そこでこの二つの寺を別々に管理する元の制度に戻した。なお、民国以後まで、天竺寺は毎年、霊隠寺に二千両銀を援助した。

  西暦1816年

  嘉慶(かけい)二十一年秋、霊隠寺は火災で大きな損害を被った。

  西暦1823年―1828年

  霊隠寺の修繕工事は大規模て難度も高かったので、住持が朝廷に上奏し、国庫から一万両金の再建資金をいただいた。朝廷の官員の寄付金が一万一千両、富商、汪大臨や金肇新などの寄付金を合わせると、合計十万七千両に上った。当時の住持、儀謙はまた浙西の紳士(郷土の名士)たちから二万両銀ぐらい寄付を募った。修復工事は、清の道光(どうこう)三年七月七日から始まり、道光八年四月十六日に竣工した。この工事で合計十三万七千両銀余りが費やされた。霊隠寺は「もとの「霊鷲」の壮観が復元され、名山の「勝景」が回復した」。

  西暦1834年

  道光十四年、阮元(げんげん)は浙江の巡撫(じゅんぶ)になり、霊隠寺のことを特に重視していた。阮元は朱熹(しゅき)、翁方綱(おうほうもう)などの著作を集め、霊隠寺に保存するよう提唱したうえ、「霊隠書蔵」という建物を建てた。更に、世間の古籍を集め、「霊隠書蔵」として保存した。さらにこれらの保存した書籍に番号をつけ、管理条例を制定した。寺の僧侶玉峰と偶然二人に書籍を管理させるようにした。阮元が自筆で『霊隠書蔵記』を書いた。

  西暦1860年

  咸豊(かんほう)十年、太平軍(たいへいぐん)が杭州に入った。殆どの寺院は破壊され、霊隠寺も天王殿と羅漢堂しか残らなかった。霊隠蔵の中にある貴重な所蔵も、その多くが民間に流れ、消失してしまった。

  西暦1910年

  宣統(せんとう)二年、高さ十三丈五尺(約45メートル)の大雄宝殿が再建された。

  1917年

  民国6年に、大悲閣が再建される。

  西暦1930年

  民国19年、却非(きゃくひ)が住持になり、一心に霊隠寺を整頓し、翠微帝、春淙亭がいづれも、天王殿を修繕し、寺院の面目を一新させた。

  西暦1932年

  天王殿四大天王像が造り直された。

  西暦1936年

  民国25年冬、羅漢堂は火災で焼失し、天王殿にある木刻の韋駄天像(いだてんぞう)しか残されていなかった。この韋駄天像は樟材で彫り出され、釘を一本も使わずに、木組みの技術で組み立てらた木彫の像である。南宋の木彫芸術における絶品と言われる。

  西暦1937年

  民国26年11月、日本侵略軍が杭州に入ると、杭州市民たちは霊隠寺や天竺寺に避難した。赤十字社も霊隠寺に難民収容所を設置し、五六百人の難民を収容した。寺内はざわざわと騒がしく、ごちゃごちゃして秩序がなく、目もあてられないほど混乱していた。当時、霊隠寺内の客堂、伽藍殿、梵香閣及び東山門などは、すべてこれらの難民達の不注意で火事になり、焼失した。

  西暦1952―1954年

  1952年夏、民政庁により「杭州市霊隠寺大雄宝殿修復委員会」が成立し、霊隠寺の修復工事が開始された。政府から支給を受けた資金を使い、二年余りで大殿の工事はやっと竣工した。霊隠寺周辺は湿度が高いので、大殿は元々の煉瓦と木造の構造から鉄筋とセメントの構造に造り直された。大雄宝殿は高さ33.6メートル、敷地面積1200平方メートル、重軒の平屋式であり、荘厳な勢いを感じさせ、全ての寺の主殿でもある。殿内にある主像の釈迦如来像は高さ19.6メートル、台座の蓮の花びらとあわせると合計24.8メートルとなる。この釈迦如来像(しゃかにょらいぞう)は1953年、中央美術学院の専門家と民間の職人が唐代禅宗の有名な彫塑を参考にしながら造ったものである。24枚の巨大な樟材に彫り出され、荘厳で美しい。折目、座り方など、皆唐代における仏像彫刻の特色を模している。結跏趺坐(けっかふざ)のし方、やや挙げている右手や下げている左手、薄く開けている御目、ふっくらとした頬と微笑み、金箔(きんぱく)で仕上げた全身、端正な顔立ち、すべては仏の無限の光を放っている。この仏像は仏教の開祖、釈迦牟尼仏の標準的な像であることが国際仏教界の人々と学者たちとによって認められている。

  大雄宝殿の両側には二十諸王の塑像がある。殿の後ろには十二縁覚像がある。この十二縁覚像の安置の仕方は全国の寺院でも極めてまれだと言われる。釈迦牟尼仏の後ろは「善財童子五十三参」海島観音立体仏像群である。大小の仏像が合計156基あり、全部が泥塑仏像である。中には鍍金(ときん)させているものもあり、姿態がぞれぞれ違い、生き生きとしていて、立体感が如実に表現されている。

  西暦1975年

  国賓を接待するため、国務院の許可を得て、当年11月から、霊隠寺は全面的に修繕された。この修繕には合計百三十万元余りを費やした。寺内の仏像は全部金箔をほどかされ、石塔と経幢は永久に保全されるように修繕され、飛来峰の像も修理された。この工事は1980年に竣工した。

  西暦1982年

  「双軌制(そうきせい)が実行され、外的には「十方叢林制」、内的には民主的管理が実施された。また、この年、寺廟管理委員会(じびょうかんりいいんかい)も成立した。寺の経費の来源については、「入場券制」(お寺への「入場券」は、また「香花券(シアンフアジュエン)」とも呼ばれる)をもって自給自足ができるようになった。そのうえ、霊隠寺は社会奉仕や慈善事業なども熱心に支援している。

  西暦1983年

  霊院寺は国務院から漢族地区における「全国重点仏教寺院(ぜんこくじゅうてんぶっきょうじいん)」に定められた。

  西暦1987年

  『霊隠寺総体規劃(れいいんじそうたいきかく)』(すなわち寺の十年計画)が実施しにうつされはじめた。「杭州市佛教協会」の支持と、国内外の多くの仏教信者からの支援と関心をいただき、監院である根源、継雲、体厳が東西両序の弟子を率い、全面的に大雄宝殿を修繕し、仏像に金箔を貼り付ける工事を行った。

  西暦1998年

  木魚(もくぎょ)法師が霊隠寺の住職となり、才気のあるエリート僧侶たちを率い、仏教の優良な伝統を充分に発揮し、「伽藍規制」に従い、物事をうまく配置した。このようにして、古刹に見られる荘厳な雰囲気が元に戻った。また同時に蔵経楼、羅漢堂も再建した。

  2004年

  北伐戦争(ほくばつせんそう)の時、軍閥の呉佩孚(ごはいふ)が所轄していた第31団の団長である徐図進(とづしん)が、千年の仏教の宝物――霊隠寺初代住持となった碧鉢和尚が亡くなった時、その死体を座らせていた甕(おう)――「生天堂甕(しょうてんどうおう)」をひそかに盗み取るため、霊隠寺に火をつけた。2004年3月3日になって、77年前に紛失した「生天堂甕」はやっと霊院寺に戻された。

  西暦2011年

  10月8日、光泉法師が霊院寺の新住職に昇進し、中国仏教協会会長伝印長老はその席を光泉法師に譲った。

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