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霊隠寺の歴史について

 

 

西湖の西方の霊隠山にある霊隠寺は、杭州で一番古い古刹です。中国禅宗の十大古刹の一つであり、東晋の咸和(かんわ)三年(紀元328年)に建てられ、すでに1680年余りの歴史があります。

東晋咸和初年、インドの僧侶、慧理(えり)が中原(中国古代史の舞台になった中国の北の地域)を行脚して後、浙江に入り、霊隠山に登った時、飛来峰を見て、故郷のインドの山を思い出し、「これはインドにある霊鷲山(りょうじゅせん)にそっくりだが、いつごろここに飛来してきたのだろう。お釈迦様がご存命であった頃は、多くの神霊たちがこの山にかくれ住んでいたものだ。」と言いました。そこで、飛来峰の前で霊隠、霊山、霊峰、永福、下天竺と言う名の五つの寺を建立しました(一説に、霊鷲、霊隠、霊山、霊峰、霊順)。しかし、霊隠寺以外の四つの寺は廃仏のために壊されたか、他の建物となったか不明で、結局その後、なくなってしまい、最後に霊隠寺だけが残リました。最初に寺院が創建された当時、中国では仏教は、まだあまり盛んではありませんでした。したがって、当時建てられた寺院は一般に規模が小さく、僧侶も多くなかったのです。観光客も参拝客も非常に少なかったのでした。南宋時代、智一法師(ちいつほうし)がこの寺の住職をしていた時、寺の仕事がひまだったので、寺に沢山の猿を集め、自分から猿父と名乗り、毎日猿と遊んでいたとさえ言われています。

 

 

しかし、南北朝時代になると、状況は大きく好転しました。当時の多くの名門の貴族たちは仏教を信じ、大いに仏教を世間に広めました。そして多くの寺院が建立されました。当時、南斉の竟陵王、蕭子良と梁の武帝、蕭衍がともに仏教を信じ、奨励しました。梁の武帝の天監(てんかん)三年(紀元504年)に、「道を舎て、佛に帰せ」という詔(みことのり)を出し、佛教を国教として尊崇しました。大規模な土木工事をおこし、数多くのお寺や塔などが建てられました。あっという間に、寺院が林立し、有名な詩句にある「南朝四百八十寺、多少の楼台煙雨の中」のような盛況が現れました。当時の杭州では、天真寺、浄空寺、東林寺、建国寺、発心寺、孤山寺などがすでにあった上、在宅の信者も大勢いました。彼ら在宅の信者たちは自分の宅地に小さなお寺を建て、線香や灯明を供養しました。杭州のお寺の中で霊隠寺は、梁の武帝に保護され、土地を賜ったりしてその規模が拡張され、参拝客もずっと多くなってきました。ところが、北周の武帝年間(561578年)になると、廃仏令が公布され、僧侶は還俗させられ、法器や仏典などが焼却され、寺院も没収されてしまいました。したがって、霊隠寺も他の寺院同様、ひっそり荒れるがままになっていました。

隋の文帝の仁寿二年(602年)、仏教は再び盛んになり、僧侶の慧誕法師が杭州へ仏法を伝えるために派遣されました。霊隠寺の前にある飛来峰と蓮花峰の間に神尼舎利塔(後に倒壊する)が建てられました。唐代には、霊隠寺の寺院はすでに相当の数に上り、その規模も拡大していました。茶聖と言われる陸羽の『霊隠寺記』に:「晋宋ハ已ニ降シ、賢能ハ迭ニ居、碑ニ簡文之辞ガ残リ、榜ニ稚川之字ガ蠹ム。榭亭ハ岿然シ、袁松ハ多寿ス。角ヲ繍シ拱ヲ画シ、霞ガ九霄ニ於イテ暈ス;藻井丹楹ハ、四照ニ華垂ス。修廊ハ重複シ、潜玉之泉ガ潜奔ス;飛閣岩暁ハ,垂珠之樹ニ下映ス。風鐸ハ鈞天之楽ヲ触レ、花鬘ハ陸海之珍ヲ搜ス。碧樹花枝ハ、春ニ荣エ冬ニ茂ス;翠嵐ハ清籟シ、朝ニ融シ夕ニ凝ル」とあリます。いかに当時の仏教が盛んであったかがわかります。

唐朝の長慶年間(821824年)、霊隠寺の僧侶道峰(どうほう)は「華厳宗」を修め、よく霊隠寺と杭州の各寺に宗義を講じて、その信者も大勢増えました。当時の霊隠寺、天竺諸寺は皆華厳宗を尊崇したので、一時期、宗風は大変盛んでした。

 

 

北周の武帝の廃仏令の後、唐代の会昌五年(紀元845年)、仏教史上第二度目の大規模な廃仏事件「会昌の廃仏」が起きました。唐の武宗は「排佛廃佛禁佛」を主張し、霊隠寺もその禍から免れえませんでした。寺院は破壊され、僧侶は解散、寺は鐘の音も線香の煙もない状態に陥りました。その後、廃仏令は少し緩和されはしましたが、まだもとのようではなく、ただ線香や灯明があげられつづけるにとどまリました。呉の越王、銭鏐の時、霊隠寺は再び重視され始め、後漢の天福十二年(947年)、呉の越王、銭弘仿が霊隠寺の規模を九楼十八閣七十二殿にまで拡張しました。その後、一時期には、僧侶は三千人にまでになり、常に遠くから僧侶たちがお経を求めて来ました。後周の顕徳七年(960年)、皇帝が奉化から高僧の延寿を招き、霊隠寺の住職を担当させました。これによって僧の宿舎は五百余り、石幢は二基新築されました。寺の東側に百尺の弥勒閣、西側に只園が建てられ、千三百余りの殿宇や房舎が建立されました。当時この新建築は廊下がいく重も曲がり、山門から左と右の方向へと向かい、ついには方丈室へと繋がり、「霊隠新寺」と呼ばれました。宋代初期の文学者、羅処約の『重修霊隠寺碑記』には、「霊隠寺は建築が精緻で美しい、環境が静かで内装が非常に華やか、外装は荘厳である。」と書かれています。蘇東坡の詩『遊霊隠寺』には「高堂会食シ千夫ヲ羅シ、鐘ヲ撞キ鼓ヲ撃キ朝晡ニ喧ス」という詩句があリます。唐代の人、司空曙の詩『霊隠寺』にも次のように詩作されています:

春山古寺ニ烟波ガ繞キ、石磴盤空ニ烏道ヲ過ス。

百尺金身ハ翠壁ヲ開キ、万龕灯焰ハ烟蘿ヲ隔ツ。

雲ガ生シ客ガ到リ衣ヲ侵シ湿シ、花ガ僧前ニ落チ地ヲ覆フコト多シ。

方袍ト同ジク結足サ不,塵世ニ下帰シ如何ニ定マン。

この詩の中にある言葉「百尺金身」或いは「万龕灯焰」とは、当時の霊隠寺に見られる壮大な寺院建築の様子とその大規模さを十分に説明しています。

 

 

宋の真宗の景徳四年(1007年)、霊隠寺は霊隠山景徳寺と改名しました。天禧五年(1021年)真宗は霊隠寺に「景徳霊隠禅寺」という名を与えたように、宋代の皇室は霊隠寺をたいへん重視しました。仁宗の天聖二年(1024年)、霊隠寺を修繕するため、章懿太后が九千五十四貫の私財を霊隠寺に投じました。天聖八年(1030年)には、僧侶たちを養うため、杭州と秀州(今の嘉興)にある肥沃な田畑二枚、つまり一万三千畝余り(約866ヘクタール)を霊隠寺に与えました。景佑二年(1035年)、住職延珊は、呉の越王の家廟、奉先寺(後に消失)に置いてあった開宝二年(969年)に造られた二基の経幢を霊隠寺の天王殿の前に移しました。皇佑元年(1049年)、皇帝が刺繍『観音心経』二枚、『回鑾碑』及び飛白黄羅扇などの皇室の専用物を霊院寺に与えました。慶歴年間、丞相韓琦、参政欧陽脩などの当時の有名な官僚たちが、契嵩の著書『伝法正宗定祖図』、『伝法正宗記』、『伝法正宗論』の三書(『嘉佑集』と併称する)及び『補教篇』などを『大蔵経』に編入するように上奏しました。仁宗はこれを許し、契嵩に「明教大師」という称号を与えました。当時の霊隠寺はすでに天下の禅宗の聖地となっていました。杭州の知事蘇軾はつれづれに、よく霊隠寺に行って休んだり詩を作ったりしました。白居易は記念に書き記された「冷泉」の後に「亭」という字を加え、霊隠寺に関する詩も沢山作リました。この中の『留題霊隠寺方丈』という詩で、当時霊隠寺に見られた晨鐘暮鼓、香火が絶えない場面を描写しています:

渓山処々皆廬ム可キ、霊隠飛来孤ガ最愛ス。

喬木百丈蒼髯須、擾擾筆ヲ下シ柳ト蒲。

高堂会食シ千夫ヲ羅シ、鐘ヲ撞キ鼓ヲ撃キ朝晡ニ喧ス

凝香方丈氍毹ニ眠スコト、絶シテ絮被ヲ海図ト縫ウコトニ勝ツ。

 

      南宋の時代、臨安(今の杭州)は首都になりました。紹興五年(1135年)、宋の高宗が霊隠寺を「霊隠寺嵩恩顕親禅寺」と改名しました。高宗や孝宗もよく霊隠寺に来訪し、線香をあげ、時筆をふるうことがあリました。宋の理宗は霊隠寺嵩恩顕親禅寺に元々ある大雄宝殿を「覚皇殿」と改名し、「妙荘厳域」という四文字を与えました。宋の寧宗の嘉定年間(12081224年)、浙江の禅寺を評定しました。それによると、径山寺が第一位、霊隠寺は第二位、浄慈寺が第三位、寧波の天童寺が第四位、阿育王寺は五位でした。乾道三年(1167年)二月、宋の孝宗は毎年の仏の誕生日(四月八日)に五十匹の絹織物を禅寺に与えることを諸侯に勅命しました。乾道六年(1170年)、霊隠寺の住職慧遠に「佛海禅師」という称号を与えました。乾道八年(1172年)、宋の孝宗は自ら霊隠寺を訪問し、慧遠を召して謁見し、「瞎堂禅師」という称号を与え、更に慧遠の法堂を「直指堂」と改名し、瞎堂禅師に「直指堂」の印鑑を与えました。紹興二十八年(1158年)、霊隠寺は浄慈寺を模倣し「田字殿」を建て、五百羅漢を安置しました。このため一時期、この杭嘉湖地区では「数えても数え切れない霊隠羅漢」という言い方が広く行われました。

元朝の90余年間、霊隠寺では新たに建てられたものもあるし、また壊されたものもあリます。元の武宗の至大元年(1308年)、宋の理宗から称号を賜った「覚皇殿」は朽ちて倒れそうになったので、僧侶の慈照、住職の正伝、平章の張締の三人が責任を持って覚皇殿を修繕しました。修繕工事には四年を費やし、元の仁宗の皇慶元年(1312年)になって竣工しました。元の順帝の至元四年(1338年)、竹泉法林禅師は浄慈寺から霊隠寺へ転居し、朝廷から金衣を賜わりました。竹泉法林禅師のおかげで、当時霊隠寺の宗風は非常に盛んになりました。元の順帝の至正十九年(1359年)、寺院は戦火により焼失しました。至正二十三年(1363年)、住職、輔良はただ方丈室と伽藍堂を再建しただけでした。すなわち霊隠寺の零落は元代から始まったと言えるでしょう。

明の洪武三年(1370年)になって、明の太祖、朱元璋は霊隠寺の住職、見心来複を京に召し、説法させました。見心来複の説法はすぐに朝廷と民間の人を驚かせ、多くの人々に敬愛されました。明の太祖は見心来複を「十大高僧」の一人として封じ、金衣の袈裟を与え、また、「正心」「崇本」「観道」「敬賢」という四つの書を勅撰させました。ところが、見心来複はその後の「胡惟庸の獄」という事件に累を及ぼし、投獄されて後、殺害されてしまいました。 

 

   同年、霊隠寺は火災により多くの建物が焼失しました。洪武十七年(1384年)、住職慧明が覚皇殿を再建し、「霊隠禅寺」と改名しました。一時期、資金不足に陥ってしまっていたので、仏殿内の仏像は永楽元年(1403年)にやっと完成しました。この時、僧侶の善才が寄付金を募り、諸天大仏を修繕し、仏具を備えました。宣徳五年(1430年)、覚皇殿は再び火災により焼失しました。宣徳七年(1432年)、住職の曇纘が左右翼門と面壁軒を造り直し、住職、良階は曇纘に続いて覚皇殿を建て直しました。

正統十一年(1446年)、僧侶弦理が直指堂を再建し、書家の張即之がその扁額を書キました。当時の霊隠寺は、弥勒閣、蓮峰閣、千佛殿、延賓水閣、望海閣及び白雲庵、松源庵などが建てられていましたが、昔の規模に戻ったとの感がしていました。隆慶三年(1569年)、霊隠寺は落雷で、全ての建物が焼失し、直指堂しか残リませんでした。万歴十年(1582年)、吏部尚書の張瀚、司寇の陸光祖などが如通法師を招き、霊隠寺の住職としました。如通法師は霊隠寺に来てからすぐ経を講説し、信者も施主も多くなりました。万歴十一年(1583年)の冬、霊隠寺の修繕工事が始められ、五年を費やして完成しました。大殿は唐代の建築様式を模倣し、平柱、四十八本と石柱十六本が使われ、殿名も「覚皇殿」から「大雄宝殿」に改名されました。万歴十八年(1590年)、如通法師は僧侶祓穢と一緒に理公塔を再建し、正殿に五百羅漢の像を造り、弥勒閣の旧跡に三蔵殿を建てました。三蔵殿の後ろは直指堂と方丈室で、方丈室の左側は妙応閣、右側は選佛斎でした。官員の張瀚は選佛斎のため「記」(文章の一体)を撰しました。万歴二十八年(1600年)、司礼監の孫隆が霊隠寺を修繕し、蔵経などを保存するため、三蔵殿に六百三十八函の輪蔵を設置しました。輪蔵の左側には四十九灯の薬師灯蔵、右側には百二十五軸の水陸像蔵があリました。崇禎十三年(1640年)、霊隠寺は再び火災にあい、大殿と直指堂などの殿は無事だったものの、他の建物は全部祝融の災で全壊しました。

明末清初の時期、霊隠寺はすでに苔だらけになり、悲惨な光景を呈していました。当時の住職、豁堂禅師は、自分の力だけで霊隠寺を復興させることはできないと知って、揚州弘法寺にいる親友である具徳和尚を招き、霊隠古刹を再建させようとしました。清の順治六年(1649年)、具徳和尚は明末の頃、如通和尚が霊隠寺を修繕していた時の旧記録をこと細かく調べました。当時の修繕費用は合計八万両銀であったことが分かリましたが、具徳和尚の時代には、人件費も材料費も倍増していたので、百万両銀はないと再建はできないと思われました。再建のことに対し、僧侶たちは大反対 していたましたが、具徳和尚はつとめて衆議を排し、言い尽くせないほどの苦労をし、十八年間掛かってやっと霊隠寺の面目を一新させました。霊隠寺大雄宝殿は棟が上げられた日、十数万人の観客が見に来たと言います。『霊隠寺誌』には、「建造シテ以来、カクノ若キ盛者ハ見タコト未ダナシ!」と述べられています。

具徳和尚が修復した霊隠寺は規模が非常に大きく、「七殿」「十二堂」「四閣」「三楼」「三軒」などが建てられました。

七殿:天王殿、大雄宝殿、輪蔵殿、伽藍殿、金光明殿、大悲殿、五百羅漢殿。

十二堂:祖堂、法堂、直指堂、大樹堂、東禅堂、西禅堂、東戒堂、西戒堂、斎堂、客堂、択木堂、南鑒堂。

四閣:華厳閣、聨灯閣、梵香閣、青蓮閣。

三楼:響水楼、看月楼、万竹楼。

三軒:面壁軒、青猊軒、慧日軒。

また、浄慈寺を模倣して建てられた「五百羅漢殿」も「田字殿」と名づけられ、五十四室あり、西禅堂の下に立地していました。『湖山便覧』という本の第五巻に、「法像ハ浄慈ヨリ小サク、而シテ之ヨリヨシ」と記載されています。それ以外、双桂室、香積厨、圃室、浴室、各寮房公所などの施設も建てられ、さらに、寺院の内外に植樹され、「玉樹林」と呼ばれていました。梵宮は荘厳華麗であり、当時、「東南一」と褒め称えられていました。具徳和尚は十八年間苦労して、霊隠寺を「法席ハ一新シ、建置ハ甚ダ盛ン」にしました。『霊隠寺誌』には、「重興ト曰エドも、実ニ開創ト同ジ也」と指摘しています。王益朋は『重修霊隠寺碑記』で、「銭塘三百六十寺、未ダ此者ニ先スルコトナキ也」と霊隠寺を大いに褒め称えました。後世の人が霊隠寺の歴史的発展を評価する時、「理公ヲ祖ト為シ、延寿ヲ宗トナシ、具徳ヲ中興トナス」と言っています。具徳和尚はまさに中興の功労者であると言ってもいいと思われます。彼は十八年間努力してやっと霊隠寺の積弊を一掃させ、禅風を復活させました。当時、霊隠寺は人々に「東南第一の山」と呼ばれていました。

具徳和尚に続いて晦山和尚が霊隠寺の住職になりました。晦山和尚は、飛来峰碑坊、具徳和尚慧日塔院、普同塔の三基の塔を建てました。

『雲林寺誌』には、清の康煕二十八年(1689年)康熙帝が杭州を南巡した時、霊隠寺に御出でになったと記載しています。当時の住職は諦暉であり、康煕皇帝に扁額に揮毫することを謹んでお願いしたところ、康熙帝は直筆で「雲林」の二字をお書きになリました。そこから、霊隠寺は「雲林禅寺」と改名されました。その後、康煕帝は三十八年(1699年)、四十二年(1703年)、四十四年(1705年)合計三回、霊隠寺に御出でになったことがあリます。康煕帝が作った詩作や関連記録なども全て残されています。

清の雍正六年(1728年)、総督李衛が大雄宝殿、天王殿及び諸堂字灯楼閣などを修繕しました。雍正十一年(1733年)六月二日、時の政府は国庫から霊隠寺に五百両金を与え、また斎僧二千人を配属しました。

 

 

乾隆の初年、住職の巨濤と嗣法、諦暉は、多方面にわたって書物を読んで、仏学に造詣の深い人として、朝廷や民間に重用されていました。当時の光禄少卿である揚州の人、汪応庚は、霊隠寺へ見学に来て、住職の巨濤と初対面ながら旧知のように意気投合して、二万両銀余りを寄付し、大雄宝殿及び他の殿、堂、閣、軒、楼、亭など数十箇所を修繕しました。更に、五百羅漢を修繕して飾ること、合澗橋、龍泓洞、鷲峰径などを修理することなど、乾隆六年(1741年)十月から乾隆九年(1744年)十月まで、前後三年間を費やして完成しました。

乾隆年間、乾隆帝は乾隆十六年(1751年)、二十年(1755年)、二十七年(1762年)三十年(1765年)、四十五年(1780年)、四十九年(1784年)合計六回、霊隠寺に御出でになったことがあります。乾隆帝が作った詩作などは全て石に刻まれ残されています。それらの石は今でも寺の前にある碑や亭の中に立っています。

乾隆四十一年(1776年)、霊隠寺の老朽化が進んだため、布政使の徐恕をはじめ各司道各府は寄付によって寺院を修繕しました。当時の霊隠寺は僧侶が全部で五百人余りいて、大量の食物と生活用品を必要としていました。ところが、霊隠寺には自らの田地や財産などは特になかったので、全ての費用は寄付金で賄いました。また、霊隠寺は天竺寺に近いので、天竺寺の線香代で霊隠寺の食糧不足を補っていました。このことは朝廷からも認可され、ずっと守られるようになリました。四十四年(1779年)、霊隠寺と天竺寺は住職が同じでしたが、一人の住職が同時に二つの寺のことを全て管理できなかったため、別々に管理する旧制度に戻しました。これ以来、民国以後まで、天竺寺は毎年霊隠寺に二千両銀を寄付することになりました。

清の嘉慶帝も道光帝も、修繕費用として霊隠寺に資金を支給しました。記録によると、嘉慶二十一年(1816年)の秋、霊隠寺は火災で焼失しました。修繕工事は大規模で難しかったので、住職が朝廷に上奏し、国庫から一万両金の再建資金を給わリました。官員の寄付金一万一千両、富商汪大臨や金肇新などの寄付金と合わせ、合計十万七千両を調達しました。当時の住職、儀謙は浙西の紳士たちから二万両銀ぐらい調達し、修復工事は、清道光三年(1823年)七月七日から始まり、八年(1828年)四月十六日に竣工し、合計十三万七千両銀余りが費やされました。霊隠寺は「霊鷲の壮観が戻され、名山の景勝が回復された」と言われました。道光十四年(1834年)、阮元は浙江の巡撫をし、霊隠寺を特に重視しました。阮元は朱熹、翁方綱などの著作を集め、霊隠寺に保存させるように提唱したうえ、「霊隠書蔵」という建物を建立しました。。また、世間の古籍を集め、「霊隠書蔵」に入れました。また、保存した書籍に番号をつけ、管理条例を制定し、寺の僧侶玉峰と偶然二人に書籍を管理させるように決め、。阮元が自筆で『霊隠書蔵記』を書きました。霊隠寺の所蔵には、宋の明教、契嵩禅師の上堂槌、宝達の照佛鏡・白沙床、宋孝宗から賜った直指堂印、范仲淹のベッド、秦桧から貰った斎僧鍋、龍文拜石、沈周の飛来峰図・霊隠山画巻、程嘉燧の冷泉亭図、李流芳の西湖卧游画冊・冷泉紅樹図などがあり、非常に豊富なものでした。宋の天聖八年(1030年)、杭州霊隠山景徳霊隠禅寺牒を賜リました。また、董其昌、密雲、三峰、諦暉、巨涛、陳鵬年、翁方綱、胡高望、王時敏、張照、梁同書、白松麟、石韞玉などの直筆の書画も収蔵しました。。

清の咸豊十年(1860年)、太平天国軍が杭州に入ってきました。このため、殆どの杭州の寺院は破壊されました。霊隠寺は天王殿と羅漢堂しか残されませんでした。霊隠寺書蔵の中にある貴重な所蔵も数多く民間に流出し、結局紛失してしまいました。

その後、住職、貫通が聨灯閣、大寮、倉庫などを修繕しました。貫通法師に続いて住職になった昔征和尚が霊隠寺の住職となり、十年間で、官員、盛宣懐の保護と支持を得、宣統二年(1910年)に高さ十三丈五尺(45メートル)の大雄宝殿を再建しました。民国6年(1917年)、大悲閣が再建され、民国19年(1930年)には、却非が住職になり、一心に霊隠寺を整頓し、翠微帝、春淙亭、天王殿を修繕し、寺院の面目を一新させました。

 

 

民国25年(1936年)冬、羅漢堂は火災で消滅し、前代の物としては、天王殿にある木刻の韋駄天像しか残されませんでした。民国26年(1937年)11月、日本侵略軍が杭州に入り、市民たちの多くが霊隠寺と天竺寺に避難しました。赤十字社は霊隠寺に難民収容所を設置し、五六百人の難民を収容しました。寺内はざわざわと騒がしく、ごちゃごちゃして秩序がなく、目もあてられないほど混乱していました。当時、霊隠寺内の客堂、伽藍殿、梵香閣及び東山門などは、難民たちのうかつな誤りから焼失してしまいました。

建国後、霊隠寺の大殿は白蟻に腐食され、真ん中の部分が倒壊し、仏像を押しつぶしてしまいました。1952年夏、民政庁により「杭州市霊隠寺大雄宝殿修復委員会」が修復工事を行いました。政府から修復費用が支給され、二年余りで大殿の工事はやっと竣工しました。

50年代、住職の大悲法師は寺僧を率い、土地改革、鎮反運動、抗美援朝の三大運動に参加し、百畝の土地を国に渡し、「子孫制」などの不合理的な制度を廃止し、「十方叢林制」を実行しました。寺院の戒律を整え、寺僧たちにお経を唱えさせ、仏学を勉強させ、だらしない雰囲気と悪い習慣を払拭させ、物事に積極的に取り組むことができるように霊隠寺を健全に発展させました。十年の災害の初めの頃、「破四旧」の狂風が宗教界を震撼させました。霊隠寺も大きく脅かされていました。

幸いに、周恩来総理はこの情報を得てすぐ、「霊隠寺を暫く封鎖する」とし、霊隠寺を災難から逃れ保存させました。

1975年、国賓を接待するため、国務院の許可を貰い、当年11月から、霊隠寺は全面的に修繕され、合計百三十万元余りがかけられました。寺内の仏像は全部金箔を貼り付け、石塔と経幢は修繕され、工事は1980年に竣工しました。

1982年、「双軌制」が実行され、外的には「十方叢林制」、内的には民主的管理が実施されました。また、寺廟管理委員会も成立した。経費の来源については、「入場券制」(お寺の「入場券」はまた「香花券」とも呼ばれる)を通し自給自足ができるようになりました。そのうえ、霊隠寺は社会奉仕や慈善事業なども熱心に支援しています。1987年、『霊隠寺総体規劃』(すなわち十年規劃)が実施され始められました。杭州市佛教協会の支持と、国内外にいる沢山の仏教信者からの応援と関心とをもって、監院である根源、継雲、体厳が東西両序の弟子を率い、全面的に大雄宝殿を修繕し、仏像に金箔を貼り付ける工事を行いました。

1998年、木魚法師は霊隠寺の僧となりました。木魚法師は才識のある優秀な僧侶を率いて、仏教の優良な伝統を充分に発揮しました。そして「伽藍規制」に従い、物事をうまく配置しながら、古刹に見られる荘厳な雰囲気を守りつつ、蔵経楼を再建したのでした。清代に至り、浙江巡撫阮元が霊隠寺に建てた「霊隠書蔵」は、実はわが国で最も古い公立図書館といえます。残念ながらこの建築は太平天国の戦火で失われてしまいました。百四十年余り後の今日、新築した蔵書楼は規模がより大きく、蔵経がより豊かで、レベルの高さは古今未曾有といえます。同時に、羅漢堂も再建されました。

 

 

創建舎の慧理禅師から計算すると、霊隠寺はすでに1680年以上の歴史をもっています。長い歳月を経て、何度春が訪れたのか、何度風雨が通り過ぎたのか、それすら知らず、ただ、どんな困難に遭遇しても、霊隠寺は諦めずに堅固に佇立しています。寺院は壊されることはあるが、仏法は壊すことはできない!歴代僧侶のたゆまぬ努力により、霊隠寺は長い歴史の中で幾度となく滅亡の危機に瀕しながら、すぐに勢いを取り戻し、より以上に堅固になってきました。あたかも、野火が草を焼き尽くさないうちに、新しい草がまた生えてくるように感じられます。

 

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