霊隠寺は東晋の咸和元年(紀元326年)に建立され、約千七百年の歴史があります。杭州では一番古い名刹です。杭州市の西湖の西に位置し、北高峰を背にして飛来峰に向かうように建立されています。青い山々やうっそうとした森に囲まれて、雲か煙か、はるか彼方にかすみたなびき、まさに深山にいだかれた古寺と言えます。
霊隠寺の創建者は慧理和尚(えりおしょう)という西インドの僧侶でした。彼は東晋時代の咸和元年、中国の中原(中国古代史の中心となった地帯)を行脚したのち、浙江に入り、当時の武林(現在の杭州)に至って、そこにある峰々を眺めながら、「これは確かに中天竺(古代インド)にある霊鷲山(りょうじゅせん)にそっくりの山だが、いつここに飛来してきたものだろう。お釈迦様がご存命であった頃には、大抵の神霊たちがあの山に隠遁(いんとん)していたものだ」と言いました。そこで、皆はその峰の前に寺を建て、「霊隠寺」(リンインスー)と名付けました。
最初、仏法がまだ盛んになっていないころ、中国の全ての寺はその規模が小さかったのですが、南朝の梁武帝(りょうぶてい)の時、広大な土地を賜り、寺の規模が拡張されました。その後、唐代の大暦六年(771年)、霊隠寺は全面的に修繕され、参拝客も急劇に増えました。唐代末に至ると、いわゆる「会昌の廃仏(かいしょうのはいぶつ)」(唐朝の会昌年間、武宗帝による仏教弾圧事件)により、霊隠寺は破壊され、僧侶たちは解散させられました。五代の呉の越王・銭鏐(せんりゅう)の時代に至って、永明延寿大師(えいめいえんじゅたいし)に、霊隠寺を再建するように命じられました。さらにこの際、石幢(じゃくどう)、仏閣、法堂、百尺の弥勒閣(ひゃくせきのみろくかく)が増築され、「霊隠新寺(れいいんしんじ)」という名を賜リました。最盛期には、九楼、十八閣、七十二殿堂があり、また僧坊は千三百室、およそ三千人以上の僧が修行・居住していました。南宋の時代、杭州はその首都になリましたが、当時の皇帝、高宗や孝宗はよく霊隠寺においでになり、寺務を管理され、寺のために筆をふるっておられました。寧宗の嘉定年間に至ると、霊隠寺は江南の禅宗の「五山」の一つと言われるようになりました。清代の順治年間には、禅宗の高僧である具徳和尚(ぐとくおしょう)が霊隠寺の住持(じゅうじ)になり、十八年の再建期間を経て、梵刹(ぼんさつ)が荘厳になり、古い建物が立て直され、その規模は拡大されて、霊隠寺は文字どおり「中国東南最大」の寺になりました。清の康煕(こうき)二十八年(1689年)、康熙帝が南巡した時、霊隠寺に「雲林禅寺(うんりんぜんじ)」という名を与えました。
新中国の成立後、霊隠寺は何度ともなく大修繕が行われました。今、住持の光泉法師が、東西両序の弟子をひきい、「佛教の良い伝統を更に発展させ、東南の浄土を作ろう」という目標に向かって、千年の古刹である霊隠寺を大きく発展させています。法幢(ほうどう)と大樹は風に靡き、僧侶達は安らかにまた和み、寺内は活気に溢れています。
現在、霊隠寺は敷地面積130畝(約8.7ヘクタール)、中軸線上に天王殿、大雄宝殿、薬師殿、直指堂(法堂)、華厳殿があり、両側に五百羅漢堂、道済禅師殿、聨灯閣、華厳閣、大悲楼、方丈楼などの建物があります。雄壮にして高大な宝殿は巧みに配置され、整然としています。大雄宝殿の中には、唐代の禅宗に基づいた釈迦牟尼(しゃかむに)の仏像があり、この仏像は樟の木材彫刻、二十四枚で組み立てられたものであり、高さは24.8メートルあります。仏像の表情が荘厳で、生き生きとしていて、国内でも非常に珍しく、優れたものです。
霊隠寺は創建されて以来、多くの高僧たちがここに雲集し、文人たちもここに集まることを好み、儒仏の信者たちの多くがここに交流し、禅や道について討論したり吟唱したりして、盛大で蘊蓄の深い、文化的一大宇宙を形成してきました。また、霊隠寺には悠久な歴史をたたえる仏像、法器、経幢(きょうどう)、石塔、御碑、書画など貴重で珍しい文物が数多く保存されています。
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