霊隠文化

禅茶论坛 11 禅茶の人生

  お茶は飲む人によってその匂いを異にする。清めた水を沸かし、点じた茶は飲む人の口の中に味を残す。その味は人生と同じように苦いと思う人もいれば、青春のように爽やかで淡いと思う人もいる。お茶にも濃淡があり、冷暖があり、悲しみや楽しみがある。俗世間の心でお茶を飲むと、色・香・味に拘りやすい。そのため、茶のほのかさと素朴さが見逃される。茶には色々な味が含まれている。世間の事や日常の感情まで含まれている。出離の心で茶を飲めば、空を漂っている雲の堂々さ、また波のない清水のような静かさが体験できる。

茶は、自然から生まれ、日月の精華を取り、季節の洗礼を受けて育った。その故、茶は自然界の山水のような霊性を持ってきた。茶で浮世を離れ、心を清め、良い縁を結ぶことができる。茶の達人は、人生を生きることをも純化することを願う人でもある。

人生には七苦がある。衆生はこの俗世間に流され、いろいろな苦を味わい尽くす。それは甘さを吟味するためにほかならない。世の中は繁華しているにも拘わらず、結局、土と埃になるにすぎない。まるで夜の幕が白昼の粉飾を覆い隠すかのように、すべては静寂に帰す。光陰矢の如し。気になっていた損得や勝敗などは、すべて幻のようである。どんな時でも、彼岸はすぐそこで、一歩の距離である。道に迷った人は正しい途に引き返せば、天地も広大になる。

『般若心経』に曰く:「無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想。一切随縁、一生随縁、方得自在。」と。現世に執着しすぎる人にとって、修行は向いてない。因果に執着している人も、修行は向いてない。茶には仏性がある。緑の雲と浄き水のように、茶を何杯か飲むと、心配事がなくなる。修行をする人は日常のすべてを茶の湯の中に浸し、雑念を捨て、菩提心を悟ることができる。

茶には「慈悲喜捨」という四徳がある。いわゆる雲水禅心とは、一杯の茶から生者がいつか死に、集まる者がいつか離れ、栄える者がいつか滅ぶという真意を悟るという意味である。どんな悲しさも喜びそのものでもあり、すべての損失も得でもあるということを知っておかなければならない。自分が慈悲を持っていることこそ、世間に慈悲を持つということにもなる。

光陰は水の如し。無言は即ち美である。生活は蓮華の如し。平凡は即ち雅である。喫茶はまた禅でもある。賑やかな浮世であれ、静寂の山林であれ、どれも修行の道場になる。欲望を抑え、騒ぐを除くは悲観的ではなく、逃げることでもない。ただ単純な生き方を求めているだけである。当下に安住できれば、どんなに小さい心でも、万物の生滅を受け止めることができる。

『金剛経』に曰く、「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」と。私たちは決まりきった悲劇のために悲しみに沈むのではない、かといっても、将来の円満のために、修行をやめるわけにもいかない。喫茶は心を修正するためである。濁りのない清き茶の湯によって禅意を悟るのである。表象に迷わず、無意味な流浪から離れ、早く清浄な彼岸に辿り着くようにするのである。

喫茶は人の過ちに寛容なので、飲んでいるうちに平和となる。本当に完璧な人生には大なり小なり空白のところがある。この空白は、いわゆる仏家の「空明」ということである。人間社会は自己をもっともよく表す劇場である。ある日このストーリが終わる日が来れば、出離を選ぶ。しかし、本当の諦めは単なる窮地に陥るようにやめるわけではない。選ぶ道がないのは、さらに高度な選びがあると信じるべきである。

静かな水はその流れも深い。単純な人はその心が清めて穏やかなので、禅理も簡単に理解できる。仏道の修行も喫茶と同じく、苦い茶を無味にまで飲むのも禅の境地である。人生は、複雑なところを単純化したほうがいい。世間がいくら変化しても、心は静かで咲いている蓮のようであれば、よろずの渓流が最後に一つの川と合流する。それも清らかで単純で安定した川である。

喫茶には清らかで慈悲の心が必要である。喫茶は車馬の往来が盛んな都会にいても春風が耳元を透かし、秋水が埃を流すような爽やかさが感じられる。雲が空に浮き、鳥が軒下を飛び、いい香りが漂う、これらはあるかないかのように人生の虚実を伝えている。机の上には木魚一つや経文何冊、それに、散在している菩提があって、ほのかな月光の下で、静寂の極みに至っている。

世間や風雲は変化が激しく、予測できない。仏教では因果輪廻が重んじられる。世の中のすべてはどれほど変化してもいずれも雲が散り、霧が消えるようになる。茶の如くは、万物の魂が含まれていて、茶碗に入れると、一色であり、すき透る。

仏の曰く:「舎は得で、残欠は円満である」と。私たちが生涯の時間をかけても覚

えきれない経文は、悟った時には、一目ですぐ覚える。実は深くて広いと思われる禅も一念の間にある。毎日の暮らしの中に、水の中に、花の中に、婆娑世界にある。

喫茶には、色々な材料の茶の具を使える。多くの人がお茶を飲むのは、単なる暇つぶしのためである。茶の味や冷暖をそれほど重要視していない。僧侶たちが禅茶を飲む時も、儀礼を重視していない。しかし、飲むことによって、般若の味を味わうのだ。

古くからの時の流れに従って、茶は日常生活の習慣の一つになり、修習者に欠せない必需品になった。ただし、不安の歳月を波のない静かな水のように穏やかな心境まで茶を飲める人が何人いるだろうか。混濁の世間にいて、単純で明らかな心境にまで茶を飲める人が何人いるだろうか。

 晴れても雨でも、春でも、秋でも、自由自在に一日を選んで人生の禅茶を飲み、本心に戻り、元来の自分を見つけることができるだろう。いつか、私も世の最後の一杯の茶を飲み尽くし、この浮世を出離し、平和な世を迎える。それは迷わないで帰ることを知ったことかも知れない。或いは、禅定に入り、覚悟したことかもしれない。しかし、これらは、もう重要ではない。今後も、私は、禅茶を飲みながら、時間とともに静かに流れていく。

編集者:大魚  編集日付:2013-08-11

 

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