仏教が伝った当初から、僧侶たちは眠らずに坐禅し続け、お茶だけを飲むようになり、飲茶と禅定の間に深い関係ができた。さらに、趙州古仏の「飲茶にいく」と三称する心印が巧みに伝承されるに至って、飲茶と仏教は深い縁で結ばれようになった。今に至って、茶事が仏事に溶けこんだことから、茶風と禅風とが合一するまで、かなりの過程が経ってきた。この過程の完成がすなわち「茶禅一味」という命題の公式的な提出である。
「茶禅一味」は宋の臨済宗の大師、円悟克勤によって提出されたものである。円悟克勤は、字が無著で、俗姓が駱で、彭州崇寧(今四川に属する)の出身である。18歳で出家したが、最初は仏教の経論を習い、後に禅宗に入った。一生南北を転々として、当時有名な禅師や士人官僚と多く付き合っていたので、該博な禅学知識と豊かな見聞を持っていた。いつも自慢して「わしは一生にたくさんの人と付き合い、たくさんの知識を学び、諸々の宗派を尽きるほど研究した。全部洞察できるほどではないが、大部分は知っている」と言っていた。
円悟克勤は長い間、湖南澧州石門の夾山寺(また靈泉禪院ともいわれる)と湘西の道林寺で住職をしていた。夾山寺に住していた時、雪竇重顯の『頌古』を講義した。後、弟子たちによって整理、編集された講義の原稿が、大きな影響を持つ『碧巖集』である。『碧巖集』は夾山の異名「碧巖」に因んで命名された。のちに、『碧巖集』は広く伝わり、高麗と日本まで伝播されていったので、法道が盛んになったと思われる。
宋代以前の飲茶の習慣は、唐の禅宗によって大いに推進されたので、「茶煙裊而乳竇飄香,禪悅味而虛實生白(お茶の煙がゆらゆらと舞いあがり、いい香りがしている。禅悦を味わい、虚実から仏理が明らかになる。)」と詠われた仏門の盛況が現出した。宋に入ってから、飲茶は、「朝起きて手と顔を洗ってお茶を飲む。お茶を飲んで仏像の前で礼拝する。…寮に戻って眠り、起きてから手と顔を洗ってお茶を飲む。お茶を飲んでから雑事をやる。勤行、食事、洗面、飲茶など。」と言われるような日常生活から、「出家者の家風とは何か?」と聞かれ、師が「食事後のお茶三杯」という禅意の含まれた回答まで、茶事禅事はもう合一な状態に一致するようになった。「滔滔不持戒,兀兀不坐禪。釅茶三兩碗,意在鑊頭邊」(この詩は「持戒もせず、坐禅もしない。毎日お茶ばかり飲み、畑仕事だけしている」という表面的な意味ではなく、形に拘らず、禅の真意を体得する禅僧の日常状態を表している)、貫通した禅師は何をしても「これ」を離れない。「これ」とは、禅であり、本心であり、本性である。貫通したとき、禅は茶を離れず、茶は禅を離れない。そのため、禅寺の規則、日常生活、仏事、勤行などはすべて一味に融合されている。「一が真であれば、一切は真である」、一が如であれば、一切は如である、十法界が本来一味である以上、「茶禅一味」の説は時運に応じて自然に現れたのである。
文献の記載によると、佛果克勤が自ら「茶禅一味」という四文字の秘訣を書いて、弟子の虎丘紹隆に渡している。虎丘紹隆は「虎丘派禪法」を創立し、広く全国にその名が知られた。この四文字の真髄がその後、日本人の留学僧によって日本に伝わった。海岸に着いた時、波が高かったので、破船してしまったが、幸い、この四文字の秘訣はよく表装されていたので、波に飲み込まれずに済んだ。海岸まで漂流し、誰かに拾われた。その後、幾度か転々とし、最後に日本の禅宗大師の一休宗純の所に辿りつき、日本で代々相伝の国宝になったのである。
前に述べたように、「茶禅一味」の真義は即ち元来仏法の平常事であり、日常生活に属するものである。「茶禅一味」はつまり「茶」は禅であり、禅は茶である。茶で禅を例えるとき、茶と禅は二つではない。もちろん、どんなものをもって禅を例えても、そのものが禅と二つではない。いわゆる「聞聲見色,無非是禪(見ること、聞くこと、すべて禅である)」、「低首舉足,皆成佛道(一挙手、一投足すべて仏道となる)」、「一切色是佛色,一切聲是佛声(一切の色は仏色で、一切の声は仏声である)」、仏色は仏声であり、禅である。「見本性為禪(本性を見るを禅となす)」、本性を見るとき、縁に従い、行動する。いわゆる「德山棒」、「臨濟喝」、「雲門餅」、「慈明罵」などは「趙州茶」と同じように妙用であり、自分の本性が現れることである。本性が現れたとき、何を見ても皆菩提である。「青青翠竹盡是法身,郁郁黃花無非般若(青い竹はすべて法身であり、郁郁とした黄色の花は般若と異ならず)」。
『辞海』、『辞源』、『中國大百科全書•茶業卷』、『佛光大辭典』、『佛學辭典』、『佛教文化辭典』、『佛教文化百科』、『中國茶酒辭典』など、現在よく使われている権威ある事典や仏学辞書、また茶文化に関する著書を検索しても、「茶禅一味」という項目は収録されていない。ただ一つ『中國茶酒辭典』だけに「茶禅」が載っているが、「仏教では飲茶坐禅、午時を経てから食せずということを提唱している。これが茶禅といわれる」という全く要領を得ない解釈がされているだけである。この解釈は「坐禅し飲茶する」を「以茶悟道」「以茶伝心」という「茶禅一味」の「茶」の意味と混同したのである。前にも述べたように坐禅と飲茶は、ただ僧侶が茶にある禅定に有利な物質的属性の一面を利用しているだけで、「茶禅」の「茶」は、宗師が学人を悟らせるために巧みに使う道具であるに過ぎない。坐禅飲茶を「茶禅」の茶と間違った例は他にも、『農業考古』1997年第4号の「茶と仏教」という論文にも見られる。この文章の終わりに次のように書かれている。「お茶は仏教寺院で愛飲されて高い地位に置かれた(茶禅一味)のは、僧侶たちにお茶を飲ませて、眠気を除くためである。仏事活動に奉仕するにすぎない。」ここでは、寺院の日常生活にある仏や僧への供え、布施者への感謝、ないし坐禅など仏事活動の時に飲むお茶を、茶禅一味の「茶はつまり禅である」という意味の「茶」と混同している。勿論、作者はまだ「坐禅飲茶」と「茶禅一味」の本質を区別できないでいるのもその一因である。
「茶禅一味」の「禅」はあらゆるところに遍している。「即事而真(事に即せば真である)」、「當相即道(相に当たれば道である)」(華嚴宗の言葉)。「茶禅一味」の「茶」は「茶禅不二」の茶である。「不二法門」がすべての二元対立を超えているので、一切法はすべて仏法である。いわゆる一切法は一切法でない。「一月普現一切水、一切水月一月攝(月はひとつであるが、すべての水に映る。水にあるすべての月は一つの月である)」空の月がなければ、水の月もない。水の月がなければ、空に月があるわけがない。「空の月」、「水の月」は同一である。禅の味と茶の味もそういうものである。
『景德傳燈錄』によると、師の帰宗は南泉と同行していたが、ある日別れることになり、一緒にお茶を飲むことにした。南泉は「私たちは昔からお互いの境界を知っていたが、もしこれから他人に畢竟事について聞かれたら、どう答えればいいでしょう」と帰宗に聞いた。帰宗は「本当にいい草庵ですね!」と話した。南泉は「草庵のことを後にしておいて、いったいどう答えばいいでしょう」ともう一度聞いた。帰宗は茶碗をこぼして立ち上がった。南泉は「師兄は茶を飲んだ。お茶を飲んだことがないと願った。」と話した。帰宗は「そんなことを言っては、水一滴さえも飲めない」といった。南泉はそれを聞いて悟った。
ここでは、お茶をきっかけとして、修習者に「平常心は即、道である」というわけを悟らせる。「茶碗をこぼす」と「お茶を飲んだことがない」は同じ意味である。まさに茶事以外に禅がなく、茶事と禅事は同じである。帰宗師の答えは、簡略で、はじめはわけがわからないが、実際に「妙伝心印」の巧みさが含まれており、人の疑問を消すことができる。
保福從展禅師は古今の方便を以って師兄の長慶に聞いた。ある日、長慶は從展禅師に「阿羅漢が三毒をもつと話しても、如来には二種の語があると話してはいけない。如来に語がないのではなく、たた二種の語を語らないだけなのだ」と言った。禅師は「では、何を以って如来語とするのですか?」と聞いた。長慶は、「耳が遠い人がどうやって音が聞こえるのですか?」と逆に聞いた。禅師は「和尚は第二の道に向かっている」と話した。長慶は「あなたはまた何をするのか」と聞いた。禅師は「飲茶に行こう!」と答えた。如来は、仏心であり、本性である。本性は空寂で、「どこから来たものでもなく、どこかへ行くものでもない」。「如来語」は、本性によってできたものである。眼を瞬きする時でも、仏を立てたり拳を握ったりした時でも同じである。お茶があればお茶を飲む、ご飯があればご飯を食べる。悟った者は隅から隅まで分かり、迷っている者は何も分からなく、あたかも耳や目が聞かないようである。
從展禅師は長慶禅師の会話から悟りの道を見つけたようである。長慶禅師の「あなたはまた何をするの?」という一言に対し、問い返して、証明を求めた。從展禅師はすでに性から用を起こし、「飲茶に行こう!」という一言で、無限の意味を伝えた。それもまた「茶事は禅事に融合し、茶風が禅風と合一する」の好例でもある。
飲茶の風俗は、唐・宗の時代に、仏教とともに日本に伝わり、茶禅一体の日本茶道に展開された。「(日本の)茶道は(中国の)禅宗から生まれたものだから、茶人は禅を修習しなければならない」。そのため、日本茶道と禅宗の深い関係から、我が国の「茶禅一味」にある文化の源を遡ることができる。
日本の茶道大師である珠光禅師(一休宗純の高弟子)は「茶道の根本は心の清きにある。これが禅道の中心である」と強調したことがある。「一味の清淨、法喜と禅悦。趙州はこれを知っているが、陸羽はこの境界に至っていない。人が茶室に入ると、人や我の相を除く。内に柔和の徳を貯わえて、内外を融合し、恭しくて、尊敬し、清らかで、寂浄である。もって、天下が太平になる。」「茶室」はいつも騒がしいところから離れて、静かな山や谷にある寺院の前の「白露地」に設立される。「白露地」の空寂と茶道の素直さが相応しているからである。特定な環境や雰囲気にいると、「万縁放下」の境界に入りやすい。さらに、宗師に教えていただいたら、「身心脱落」の悟りの境界に辿りつくことができる。ある日、珠光禅師は茶碗を捧げて飲もうとする時、師の一休が鉄の如意をあげて、怒声で珠光が持っている茶碗を打ち破った。珠光は直ちに悟った。一休にまた、「何が禅意か?」と聞かれると、珠光は「柳が緑で花が赤い」と答えた。一休は印可を与えた。その後、珠光は茶道をもって修習し、ついに「仏法は茶にある」という理念を提出したのである。
日本茶道の茶聖と称される千利休も『南方録』に以下のように書いている。「仏教の教えは即ち茶の本意である。水を汲み、柴を拾い、湯を沸かし、茶を点て、仏様に供え、人に布施し、自分で飲む。また、生け花をしたり、香を焚いたりする。これらはみな仏道の修習である。」そして、「茶道の秘密は――山水・草木・草庵・主客・道具・法則・基準など、こだわりを破り、何ものにも束縛されず、何もない平穏な白露の地にあることだ。」茶道の真粋はその礼儀の束縛を超えて、「一物も持たず」、「何ものにも束縛されず、何もない平穏な白露の地にあることだ」。この「白露の地」とは「本来無一物」の「本地風光」、「実際理地」と同じ意味である。すべて、執を離れ執のない解脱の状態である。しかし、執がないとは事がないのではなく、執を離れるとは相がないのではない。ただ、事事無礙の状態である。この理が理解できれば、「萬行門中不舍壹法,實際理地不受壹塵」という境界にまで自然に辿りつけられる。これらがわかれば、「茶意は禅意そのものである。禅意を捨てれば、茶意もなくなる」ということが自然にわかるようになる。茶道のすべては湯を沸かし、お茶を点てることにある。命の本源の無限の活力と創造力もそれによって次第に湧いてくる。もしだれかが「団地而出」とは何かと聞いたら、相変わらず、「飲茶でいこう」と答えるしかないのである。
編集者:性恩行者 編集日時:2013-07-27
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